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ちょいとした間違い

仏暦2552年06月11日 木曜日

 石川県七尾市およびその近辺でオタマジャクシが天から降ってきた騒ぎありとの由。

 ヨクヨク新聞記事を見れば、最初に降ってきたと言うのは文字どおり降ってきたようで、ぼたぼたと音を立てて降ってきたのが目撃されているようです。それも100匹程ですから、これはなかなかのものです。

 ところが、2回目におたまじゃくしが”降ってきた”と言うのはそこから些か離れた所の住宅の玄関あたりにおたまじゃくしが数匹発見されたと言う話との由。そして、3回目は小鮒がこれまた数匹”発見された”と言うのであり、何れも降ってくるのが見えたと言うのではないようです。

 となると、ホンモノの話は最初のものだけ。2、3回目の話は”村興し”の類でしょう。話題を狙って、悪戯をやったと言う程度の可能性が高いように思われます。

 それにしても、最初に”降ってきた”おたまじゃくし、当日は周囲の気象は平穏だったようですから、大陸あたりで高く竜巻に巻き上げられた犠牲者だったのかも。そのおたまじゃくし、日本の種類ですか、と言う気がします。オタマジャクシを見分けるちょっとした注意力が、事の真実を拓いたかも知れません。

          †

 産業総合研究所の調べによれば、理論的に予想される地中温度よりも東京都心は随分温度が高いとの由。これ勿論、ヒートアイランド現象の一環であろうことは誰もが理解出来ます。

 ところが、地中温度は都心からかなり離れた東久留米も随分高いと言うことになっています。????

 多分答えは、そもそもこの”温度の高さ”なるものは

「ある種の予測値からの外れ」

として定義されていると言うことによるものです。東久留米市付近の予測値、つまりは理論値がちょっとばかり狂っていると言うことです。

 さもなければ、東久留米市付近で何かが起こっていると言うことなんですが、それは大丈夫なの?と心配しなければなりますまい。でも、誰も心配しないんだろうな〜。

 一体、どっちにするんですか?判らない時には取り敢えずどっちかに走ってみる、間違いが判ったらば別の道を走る、と言うのが正しいリスク・マネジメントなのですが。

          †

 和歌山毒入りカレー事件の被告、林真須美被告の死刑確定。

 何しろ動機が不明のままの死刑判決ですから、実にキモチが悪い。リスク・マネジメントの観点からすれば、この一連の裁判はcheck機能を果たせなかったと言う事になる。犯罪の全容を解明できず、よって本質的な再発防止機能を果たせなかった、と言うこと。

 まぁ、随分年を取ってきた廣島の憶測では話は随分子供っぽいものだったかも、と思うのです。被告は毒物を使って夫等を疾病状態にして保険金を詐取したりと言うことをやって来ていました。毒物のさじ加減は、ある意味見事とすら言えるほど制御されていた。

 そのノリで、近所の誰かに嫌がらせをするためとかで”ちょっとばかり”毒を盛ろうとしたのではないでしょうか?毒を盛る器も、大鍋なぞではなかったかも知れない。ところが、

「あ! どばっと こぼしちゃった…」

ちょっとした間違いは、誰にでもあるものです。

          †

 リスク・マネジメントの間違いと誰もが内心思っている新型インフルエンザ対策。医療資源を浪費したと評する識者も出る程です。

 リスクは、くどいのですが損失量×損失発生確率で計算されます。今回のインフルエンザははっきりと流行が始まってから二週間程度でさしたる毒性がないのが明らかになりました。いつものインフルエンザが夏にも出てきた、と言う程度の話。

「感染率×疾病の程度」

の水準で掛け算をすれば、そのリスクはさして大きくはない、と言う事が明らかになった筈でした。まぁ、ちょっとモノを考えている人は、この水準でWHO等を批判する事になります。

          †

 だが、詳細に見れば損失量、即ち感染した場合の死亡率を規定する別の要因がありました。けだし世の中は基本的に多要因で構成されているからです。それは

「当該国及び地域での衛生水準」

です。損失量を規定するパラメータとして、衛生水準は極めて強力だと言うことです。この限りでは、所謂開発途上国の人々が大きな問題と見做される事になります。

 ところが、損失発生確率と言うべき感染率乃至感染数に影響するパラメータ更に遡って考えると、

「人間の移動が大きいかどうか」

が重要である事に気がつきます。人の移動が激しい程、ウィルスを散蒔くことになるのは明らかです。すると、盛大に移動を行っている所謂先進国の人々こそが問題であるのが分かります。

 即ち、「先進国の人間が途上国に赴いてウィルスを散蒔く事」こそが、もっともリスクが大きい行動と言う事になります。

          †

 今回、メキシコから流行が始まり、我が国においてはメキシコ人を忌避するが如き動きをする人々があった由。

 だが、より大きく”メキシコと言う国”の我が国に対するリスク全体を考えてみましょう。

 苦難の明治維新初期、不平等条約を列強から押しつけられる中で初の平等条約としての日墨通商条約が1888年に締結されました。第二次世界大戦で言わば”形式的”に枢軸国と連合国に分かれた時期はあったものの直接戦火を交える事もなく友好関係を築いてきました。つまり、メキシコは日本にとって友人です。もし、日墨通商条約が不平等条約だったらば、明治期の日本はもっと苦難の底に陥り、日本の歴史はもっと悲惨なものになっていたでしょう。

 つまり、メキシコの我が国に対するリスクは全体として誠に微々たるものです。たかが弱毒性のインフルエンザが少々流入しそうな程度のことで目くじらを立てなさんな、と年を食った廣島は思うのであります。

          †

 晋遊舎刊「Linux100%」購入、同封されていたDVDからutuntu8.10をWindowsパーティションに混在してインストールして見ました。

 かつてのLILOの時代のようなじたばたもなく、Windowsにファイルを混在させてのインストールも出来る。インストールは滑らかで実に素晴らしい。だが、いざ立ち上げてみると、IDを認証した後しばらくしたらばマウスカーソルだけが出て、止まってしまいました。6年前の”枯れた”マシンなのですが。
     (-_-;)

 だが、このエプソンダイレクトのマシンはグラフィックチップにATI社のものを使っています。これはLinuxワールドではなかなかサポートされなかったものだったのが、最新の9.04になってサポートされた由。早速ダウンロードしてみたのですが…インストールファイルをコピーした後のシステム組み立ての最中に、スワップファイルを切り直している云々のところで、またしても止まってしまいました。
     (-_-;)

 超漢字をパーティションを切って直接立ち上げ、Windowsから見れば夢を見ているかの如きスピードと構造性で情報処理をする事に慣れ切っている身からすれば、Linuxはそう特徴があるものとは思えません。10年前にWindows Meの代わりにどうしてubuntuが出てこなかったのか、本来のコンピュータワールドの能力はこれくらい当然でしょ…と言う感じです。どうしてWindowsなんて言う隘路に、20年前にあんなに自由のオーラをまとって輝いていたパーソナルコンピューティングシステムが嵌まってしまったのか、としか思えません。

 これは、人類が犯したちょっとした間違いの一つなんでしょう。

          †

 幼稚園と保育園を一元化する施策を推進する由。

 だが、これで起こるのは

「幼稚園が行っていた幼児教育の破壊」

にしか過ぎないでしょう。とにかく子供を安価に預かる場所をもっと作れと言う要求が先にあってこれが行われようとしているのは明らかですからね。幼稚園をつぶして保育園を増やそうとしているだけ。

 本来、もっと教育や子供を育てると言うことに対して投資が行われるべきなのに、話が摩り替えられているのです。

 同様のすり替えは、かつて受験戦争が激しすぎるからと言うことで、初等教育と中等教育で行われる教育内容のレベルが目一杯下げられて、今や学力低下問題を来したのと同じことです。

 これらは、ちょっとした間違い?

          †

 ところで、我が子を育てていてつくづく感じるのは、今や小学校も崩壊しつつあると言うこと。

 親が規範と余裕を失ってぶっ壊れて行く時代に先生の人数と質を向上させることを何もやらなかった。目標は非常に結構なのですがそれを具体的に実現するための方策を欠いたゆとり教育をやってしまった。ここで混乱が生ずれば問題が誰にも明らかになったのですが、従来修得すべき内容の基準を切り下げてしまったのですから、誰も問題に気がつきませんでした…。

 高校や中学校は壊れていく過程で何しろ半分大人になりかかっている世代ですから何かと反抗したり声を上げたりしました。今や大抵の中等教育機関は壊れてしまったので、皆静かにそこを通りすぎようと言う努力を全力で行っています。時折とんでもないイジメが露になります。イジメられないように、子供たちは息を潜めて”過去の歴史においては輝かしかった青春の時代”を通りすぎようとします。

 だが、小学校では児童はそのような反抗が出来ませんから、ぶっ壊れて行っても誰も何も言わない。親もロクに子供と話をしないようになっていますから、親も壊れていっている事を知りません。または、そもそも親が壊れているので、小学校が壊れていると言う認識がないので…。

 小学校での教育が上手く行かないのだが、取り敢えず何とか相当数を大学に進学させる経済力だけはなまじあるものだから、小学校での問題は全て先送りになります。元々日本の企業等は中等教育の成果だけしか評価していませんでしたから、大学卒業者の教育程度が下がっている事に気づかない。勿論、そもそもその組織人たちの質が下がっているて一緒に降下しているのだから、気がつかない。その間に日本企業の競争力は本質的な所で低下する一方ですが、それをカバーするために労賃の切り下げと首切りばかりをやっているから、人間と組織そのものの質が下がっている事に気がつかない。

 かくして、これらの”自動隠蔽機能”がついた初等教育の崩壊は、日本においては静かに進行して行きます。一見、ちょっとした間違いが時折顔を覗かせながら。

          †

 そう言えば、小中一貫教育をやろうと言う自治体が増えています。だが、小学校は初等教育、中学校は中等教育。その内容と質は本来歴然と異なります。一貫するべくもありません。

 いや、一貫させた歴史がありました。先般から少々触れている、ドイツのハウプトシューレ、です。第二次世界大戦後、ギムナジウムやレアル・シューレに行けない水準の子供たちの知的水準を上げようと言う発想でハウプトシューレはどうやら始まったようです。まさに小中一貫教育。小学校の延長としてハウプトシューレと言う中等教育機関が西ドイツのあちこちの州に多数設置されました。

 だが、これはものの見事に失敗に終わりました。開始からわずか30年後、その卒業生はマトモに仕事に就けないことが明らかになりました。1世代にも満たない期間の間に起きた産業の高度化に卒業生たちはまったく対応できなかったのです。

 結局、様々な中間的学校をその上に設置してレアル・シューレ、ギムナジウム、そして大学に繋ぎを作る事でハウプトシューレは完全な破綻を免れている形になっています。まぁ、ドイツの歴史の中でちょっとした間違いではあったのでしょう。

 だが、そのような他山の石があるにも拘わらず、初等教育への投資を増やさずに単に問題を先送りにするだけで小中一貫教育を作ってしまうのは、ちょっとした間違いどころの話ではありますまい。

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