« May 2009 | Main | July 2009 »

読了 日本は悪くない悪いのはアメリカだ

仏暦2552年06月25日 木曜日

下村治 1987年 日本は悪くない悪いのはアメリカだ ネスコ

 2008年、所謂リーマンショック以降本書は文藝春秋社から再販売された。その記述があまりにも適切で、現代においてもそのまま通用すると見做されたからである。

 本書の主張は簡明である。1987年当時のレーガン大統領による”サプライサイドの経済運営”即ちその実態は富裕層に対する大幅減税と軍事費の大幅増大による景気振興は一時的な需要増大である、とする。内需が喚起されたのに生産力が伴わないから輸入が増える一方となる。日本の好景気なるものはこのアメリカの一方的な需要増大によって間接的に齎されたものに過ぎず、当然これに伴ってアメリカの貿易赤字は莫大なものとなるのであり、日本の黒字が問題の根源であるかのような言説は妥当ではない、とする。当然対処も、アメリカが大量の消費を止め、それに伴い日本も経済規模を縮小するべきだとする。

 本書は2009年現在における日米貿易及び資本流通の過程をそのまま指摘しているとすら言える。つまり、22年間に亘って両国の経済関係は基本的に変化しなかったのだ。生産力が低下する一方なのに野放図に消費をし続けるアメリカ。それによって低下する一方の$への信任。貿易黒字国から只管還流される事でかろうじて維持される$。日本に代わって中国が商品の強力な供給者とアメリカ国債の購入者として登場した以外には、殆ど現在の状況を批判した書であるとすら言える。つまり、

「22年間、問題は何も解決していなかった」

のである。

 本書は$の崩壊は突然やって来るだろうとしているが、更に22年も問題が只管大きくなっていたのならば、$崩壊の時の衝撃は只管大きくなって当然だろう。今、$の一部分即ち$紙幣に代わって発行された言うなれば偽金に相当する様々なアメリカの債券が崩壊しただけで世界はこの体たらくである。アメリカが国債を返済しないだろうとの主張もあり、アメリカ国債の格付けすら切り下げられる見通しだ。これは既にこれら偽金が単なる債券だったと言う事で実行に移されている。

 経済の基本は国民にどうご飯を食べさせるかと言う事だ、と言う根本的な主張も、ご立派な改革によって失業者が溢れ返っている現在、まっとう至極に写る。

 本書の主張に瑕を求めるならば、下村が優れたマクロ経済学者であっても優れた社会学者・政治学者・心理学者・技術者等々ではなかったと言う水準の話になる。アメリカがどうして過剰消費を満たす生産力を国内に求める事が出来なかったのか、と言う分析が行われていない。先般紹介した板坂1973年等のように、アメリカ人の勤労意欲の低下→商品そのものの劣悪化の指摘は多かったのである。また、日本の過剰な生産力なるものをもっと日本人の幸福なり日本の国際的地位の向上に使う事が出来なかったのは何故なのか、と言うこれまた先般紹介した真野1990年のような視点もない。

| | Comments (0)

実は、ない

仏暦2552年06月21日 日曜日

 若手ピアニスト辻井伸行氏、バン・クライバーン国際ピアノコンテストにて堂々の優勝。氏は、先天的に視力がないにも拘わらず、御母堂とご本人の努力により卓越したピアノの才能を獲得した由。

 さて、マスコミはこぞって氏を”全盲”と表しているいるし、この文章を作っている超漢字の仮名漢字変換機能も”ぜんもう”でこの単語を出します。ところが、辞書を引いてみると、この単語が…ない。色盲、あります。弱視、あります。先天盲、あります。”全盲”がもしあるならば、”半盲”があるのか?…意味を成しません。

 廣島の大学時代、学生運動にかぶれた先輩たちがまだ微かに残っていました。そういう”怖い”お兄さんたちは何か話をしていると良く、

「ナンセーンス」

と宣ったものです。用語そのものが実は無意味、定義をきちんとしていくと既に存在する他の用語と等価になったり、きちんとした範疇を有する用語になっていない、と言う事です。全盲、と言う用語もまた同じ。

          †

 人間の顔はヨクヨク見てみれば、結構不思議な構造になっているような気がします。絶世の美女なんていっても、その奥に鼻毛がある穴が二つも正面に開いていますし、何といっても分からないのはその鼻の穴の下から唇の上端に伸びる一つの溝でありましょう。

 この溝が訳が分からないと言うのは、一体それが何の機能を果たすのか分からないと言う所にありますがまぁその仮説については何れ学会発表でもするとして、より訳が分からないのは鼻唇溝と言われるこの溝が人間だけにあると言う事です。まさに”ナンセーンス”。

 それよりももっと分からないのは、大方の人々の認識の中ではこの溝は人間にはなくてむしろ猿のそれであると言うことらしいのであります。これを確認するのは簡単。さまざまな絵に描かれた猿を見てみましょう。かなりの数の絵が鼻唇溝またはそれらしきものを描いています。そしてまた、Webでの図鑑でも良いのですが、猿の顔写真を様々な種類で片っ端から見てみると、このような溝が存在する猿は存在しません。体毛が体の中心線で左右に分かれますから何とはなしにそこに構造があるように見える場合がままありますが、こんな溝はない。この”みっともない溝”は人間にこそあるものなのでした。

 まぁ、”見苦しいもの”は”下等な連中”にこそふさわしい、と人間の無意識は判断するものではあります。その無意識を認識する目がない、ことこそが問題。

          †

 他人を引っかけようとする人々は、この無意識を突いてきます。

 先般、かみさんが在宅時、”蟻子”社から電話があった由。我が家は全然何の取引もない所です。最初は我が子の英語教育の話をしているのかな?と思っていたらば、どうも話が保険の方のにずれている。あれあれ、と思っている内に電話をしてきたおばさんが曰く、

「それでは案内所をお送りしますので、郵便番号からどうぞ」

ここに至ってかみさんは気がつきました。”蟻子”社は廣島の電話番号をどこからか入手はしたものの、住所は入手出来ていなかったのです。そこで、一種の引っ掛けをやって住所を聞き出そうとしたのです。

 電話応対には何かと聡いかみさん、「結構です!」と断固として電話を切りました、とさ。

 昨今の企業は何かと”節度がない”と言うハナシ。

          †

 昨今の新型の電車の運転席、進む・止まるはレバー一本でやれるものばかりになりました。ブレーキ側にレバーを倒すとモーターが発電機になってブレーキをかけると言うタイプです。正式名称は知らないので、”運転レバー”、とでも呼んでおきましょう。運転士の右手は単なる握り棒を握っているばかりになっています。

 さて、そんな新型電車の運転レバーは、「手前に引くと前進・前に倒すとブレーキ」がかかります。だが、これは従来型の電車とは方向が逆。従来型は右手がブレーキ、左手がパワースイッチになっており、「手前に引くとブレーキ&パワーオフ」になります。前方に回転させると、要するに走ります。これは、フランス製の飛行機以外の飛行機のスロットルレバーと同じ方向にアフォーダンスがある、と言う事。

 となると、昨今の新型電車の運転レバーは、アフォーダンスがこれと逆です。間違わないんでしょうか?

 何て思っているうちに、廣島が毎日のように通勤で乗る某鉄道は更に最新・最新型の電車を投入しました。何と、運転席はこれまでの左寄りではなく車体の軸のど真ん中に位置します。加えて、運転レバーはこれまた運転士の正面に来て、両手で握るようになっています。まぁ何と言いますか、路上の遊具であるキックボードの握り手と言うか、草津温泉で湯揉みをする棒の握り手と言うか、そんな形と位置になったのであります。

 かくして、従来の左手だけで操作する運転レバーとはおよそ似ても似つかない形状と位置になり、アフォーダンスの混乱の問題はあっさり、

「ない」

ようになったのでありました。

          †

 それにしても、新型電車の運転レバーがどうして逆アフォーダンスになっているのか?

 はたと気がついたのは、

「プラットフォームを確認する等のために席を離れる際に、うっかり体が運転レバーに触れて前進位置になってしまうかも知れない」

と言う事。従来型ならばレバーは回転式なのでそもそも身体に触れても動きにくいでしょうし、ブレーキとパワーは別になっていますからフールプルーフになっています。

          †

 そんな鉄道のある駅のある日の一こま。

 廣島は都心に向かうべく、普段は使わないプラットフォームにいつもより遅い時刻に立っていました。と、下り線側のプラットフォームではずらりと整列している人々の間で、猛烈なピッチで腕立て伏せをしている若い男がいます。しかも、この男は腕立て伏せが終わるや、今度は野球のボールを投げるような動きを何度も何度も繰り返すのです。それから、ジャンプ!ジャンプ!いや〜、実に愉快な人です。世界恐慌をきっかけに露呈した日本社会の悲惨さに人生真っ暗を感じている人々に、彼は小さな愉悦を灯してくれるのであります。

 下り電車が到着し、発車しました。どうやら彼はその電車には乗らなかったようです。更に続いての軽いエクササイズ中、二人の女子高校生が通りかかりました。短く切ったジャージを制服のスカートの下に履いております。気楽を愛する廣島の目から見ても、些かだらしなさの非難を禁じ得ない…と、彼女たちはどうやら彼の野球男と知り合いのようです。お互い、にこやかに笑顔を交わしているではあ〜りませんか。

 加えて、彼らはひとけが少なくなった下りプラットフォームで野球ごっこを始めたのであります。野球男が投げる真似をし、二人の女子高校生が打つ真似をして笑い転げているのです。

 彼女たちの制服は、低位校としか言いようのないもののそれでした。日本全体の知的水準が落ちており、手先の器用さとか他人に対する親切さとかの学力ではない美徳もどんどん廃れている以上、彼女たちは

「限りなく何も出来ない人たち」

ではあります。何もない、ので、面白そうなことに食いついたと言う所でしょう。

          †

 だが、

「なにもない、のでありそうな所に食いつく」

と言う点は流石に若さと言うべきでしょうか。

「全くのすっからかんでもない」

のです。若さがあるから、ともかく何かに食いつくと言う事をやってみます。心の中に若さがないと、新しいことに食いつくと言う事は出来ないのでしょう。

 今、日本人の大方は心の若さを失ってしまっているのかも知れません。もうすぐ、世界にとんでもない変化が来るだろうと少なからぬ識者が指摘しているのですが。

 では、また。

| | Comments (0)

読了 暴走する国家・恐慌化する世界

仏暦2552年06月15日 月曜日

副島隆彦・佐藤優 暴走する国家・恐慌化する世界―迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠 2008年 日本文芸社

0 アメリカ大統領選に隠された真実:ユダヤロビーを無視して国際情勢は認識できない
 一 奇跡を肯定するキリスト教西欧文明の虚偽
  ○ イエスを神とするキリスト教はトンデモ理論か?
  ○ ミラクル(奇跡)とマジックの違い
 二 ニューヨーク金融財界人に操られるアメリカ大統領
  ○ インテリジェンス能力の源泉
  ○ アメリカ民衆の保守思想―リバータリアニズム
 三 アメリカ政治の二代原理―リバータリアニズムとポピュリズム
  ○ サラ・ペイリンを共和党の副大統領候補に抜擢した本当の理由
  ○ 日本では正しく理解されていないポピュリズムの原義
  ○ リバータリアニズムは「もっとも善良なユダヤ思想」
 四 世界を動かすユダヤロビーの実力
  ○ ユダヤロビーには3つの勢力がある
  ○ アメリカと対等に付き合えない外務省
  ○ 愛国的な外務省員は切り捨てられる
1 アメリカドル覇権の崩壊で「恐慌化」する世界:1929年の「世界大恐慌」を凌ぐアメリカ発の金融危機の正体
 一 世界中で今、アメリカ外しの動きが始まっている
  ○ デリバティブの契約の総額は実に8京円
  ○ 今や「アメリカを処分する案」が出てきつつある
  ○ グルジアの軍事衝突事件では、ロシアとヨーロッパが裏で手を握っている
 二 今回の恐慌には従来の経済学理論は通用しない
  ○ お金の動きと流れだけで富が生まれるという妄想
  ○ シカゴマーカンタイル取引所こそ世界的金融バブルの元凶
 三 アメリカ政府はAIG保険会社をなぜ救出したか
  ○ 日本の自衛隊は年金の運用をAIGに任せている
  ○ アメリカに貢いだ金はもう返ってこない
 四 カジノ経済を握る金融マンのインチキは崩壊した
  ○ 再び「時価会計制度」の放棄を宣言し始めた金融庁
  ○ ”ラチオ(強欲)”が作り出した金融工学の限界
  ○ ライブドアの株分割は一種の国家反逆罪にあたる
  ○ アメリカの資産家たちは既に外国へ逃げ出している
  ○ 金融犯罪の当事者はどこまで逃げ切れるか
 五 これから大打撃を受ける日本の金融機関
  ○ 過酷な浮き世の掟―”20分の1原理”
  ○ モルガン・スタンレーに投資した三菱UFJは相当の苦境にある
  ○ 野村ホールディングスのリーマンへの出費は命取りになる?
  ○ LTCM事件の裏で動いたソロスとロスチャイルド
  ○ 「ロシア金融危機」のとき、ソロスの在ロシア代理人だったサルティコフ元副首相
 六 世界銀行IMF体制は一旦崩壊する
  ○ アメリカのドルは間もなく基軸通貨の権利を剥奪される
  ○ 「修正IMF体制」も2012年くらいまでには崩壊する
  ○ BRICs諸国と独仏が納得すれば新しい通貨体制ができる
  ○ 100〜120年間のスパンで動く”世界覇権サイクル”
2 秘密結社の実像:西欧を動かす民族思想と宗教―キリスト教に反旗を翻した集団の思想的系譜
 一 陰謀の分析なしに国際情勢は読めない
  ○ 陰謀理論の系譜をきちんと学ぶことが必要
  ○ 現代史の中心はヨーロッパ(イギリス)とアメリカ合衆国の戦い
  ○ 陰謀論ではなく、共謀理論(共謀共同正犯理論)と呼ぶべき
  ○ ユダヤ教の本質は、ラチオ(ratio、合理)とリーズン(reason 理性)にある
 二 神学者アダム・ヴァイスハウプトの思想
  ○ 「ラチオ」を根本とした秘密結社・イルミナティ
  ○ 「強欲・拝金」の思想と「愛と恩寵」の思想
 三 ロシアで今、影響を与えている二人の思想家
  ○ なぜ神学とマルクス経済学を研究したか
  ○ 「世の中の変動にはパッションがある」とするグミリョーフの思想
  ○ 「死せる父祖の物理的な復活こそキリスト教」としたフョードロフの哲学
 四 キリスト教会(カトリック僧侶階級)に反抗する宗教思想
  ○ ドストエフスキーが描いた”強欲”と”愛”の闘い
  ○ フリーメーソン=イルミナティはキリスト教の平信徒のような存在
  ○ ルシファーとヤーヴェ「光の神」と「闇の神」
 五 ロシア人に嫌われるイエズス会の実像
  ○ 「偽善者、策略家」と言う語義があるイエズス会
  ○ 「神はいるのか」を問いかけた遠藤周作の「沈黙」
 六 神との契約から摂理重視になった近代キリスト教
  ○ カトリック信者と「二重忠誠」の問題
  ○ この世には悪魔しかいないという「汎悪魔主義」の横行
 七 神学(セオロジー)と神聖政治(テオクラシー)
  ○ 近代になって変化した「悪魔」のとらえ方
  ○ ペテロの上に立つカトリック、ヨハネの上になりたつロシア正教
3 ロシアの野望と裏で操る二大勢力―実力者プーチンとユダヤ・ロビー、アルメニア・ロビーの暗躍
 一 ロシアは2020年までに帝国主義大国を目指す
  ○ プーチン、メドベージェフ「二重王朝」は「ユーラシア主義」に立っている
  ○ プーチン前政権はユダヤ寡占資本化(オリガルヒ)を全面的に放逐してはいない
  ○ オリガルヒの政治的影響力は依然として残っている
 二 備蓄しているものをお互いに融通しあうロシア社会の伝統
  ○ ロシア人には、パン、ジャガイモ、ウォトカ、タバコがあればよい
  ○ インテリと老人層を大事にするプーチン政権の政策
  ○ 中央銀行が民間銀行である理由
  ○ 実物・実態のある資産と産業作りに邁進したプーチン
 三 ロシアを動かす二つの目に見えない同盟
  ○ ロシアは金融危機になると「金本位制」に戻す可能性がある
  ○ ロシアの同盟を考えるとき三角形と四角形の同盟がある
 四 ユダヤ人とは何者か? アシュケナジーとスファラディー
  ○ 自分の首を吊るために使われるロープまで売るユダヤ商人
  ○ ユダヤ民族には希望はなく、待望しかない
  ○ ユダヤ人とは何者か? ローマ軍に従う故買商人説
  ○ 第13番目のユダヤ族―カザール(カザラ)の正体
4 グルジアで発火したロシアとアメリカの「熱き戦争」―第3次世界大戦への発火点となるか?グルジア軍事衝突の実像
 一 グルジア紛争は第3次世界大戦の発火点になるか
  ○ ロシア正教徒のオセチア人はロシアの”第5列”的存在
  ○ スターリンはオセチアから帰化したグルジア人?
  ○ サアカシュビリ政権は国民に人気零の腐敗政権
 二 グルジア経由、カスピ海・黒海の原油を巡る争奪戦
  ○ フランス政府はなぜグルジア紛争を仲介したのか
  ○ グルジア政府の中にはネオコン派が潜在している
  ○ グルジアの軍事衝突でアメリカにしっぺ返しをしたロシア
 三 やがて中国はロシアと組み、アメリカと衝突する
  ○ 燃料資源が足りない中国はやがてロシアと組む
  ○ グルジアの軍事衝突ではイスラエルの動きが稚拙だった
  ○ グルジアを理解する鍵―特異な文法「能格絶対格構造」
  ○ 凄惨な民族紛争で漁夫の利を得る国
 四 ロシアとアメリカは「熱い戦争」を繰り広げる
  ○ グルジア紛争で冷戦にはならないが、熱い戦争の時代に入る
  ○ 見逃されているアルメニア・ロビーの動き
  ○ グルジアは世界のゴミ箱のようになっている
 五 「熱い戦い」になると中東で核兵器が使われる
  ○ アフガニスタン、パキスタン問題をどう見るか
  ○ パキスタンのカーン博士による核の密売の動き
  ○ 中東諸国で核製造の連鎖現象が起こる
  ○ 連鎖する核発射で第3次世界大戦が起こる可能性
5 劣化し暴走を始めた日本の行方―アメリカと官僚に乗っ取られた日本国は「新統制経済国家(ネオ・コーポラティズム)」へと転落する
 一 属国・日本の外交にインテリジェンスはない
  ○ 情報活動のポイントはキー・パーソンを探すこと
  ○ アメリカと対等になれない”属国・日本”の外交官たち
  ○ 今後、北方領土問題は部分的に動く可能性がある
  ○ 北方領土問題はロシア人の所有感覚がポイントになる
 二 日本の政治を堕落させた官僚制度の弊害
  ○ 小沢政権の誕生で日本が部分的に自立するのは一貫した流れ
  ○ 国家公務員制度によって去勢状態にされた日本の官僚
  ○ 今の自公連立政権は議院内閣制どころか「官僚内閣制」
  ○ 日本はサハリンの天然ガス問題や捕鯨問題をアイヌの先住民族の権利で要求せよ
 三 日米同盟にロシアを加える「地政学主義」こそ正しい日本の選択
  ○ 国際政治から見た日本の3つの選択―「親米主義」「アジア主義」「地政学主義」
  ○ 日米同盟にロシアを加え、中国とのバランスを取る「地政学主義」
  ○ 田中眞紀子外相の登場によって敗れた「地政学」的な第3の選択
  ○ 日本はいまだに核の最重点査察国の対象になっている
 四 このままでは、政権交代で日本は何も変わらない
  ○ 国家に依存しないような思想を国民がそれぞれ抱くこと
  ○ 政治の本質は「巨大な悪」ということを認識せよ
 五 全世界の国家が今、暴走を始めている
  ○ 世界恐慌に突入する前に、資本家は丸裸にされる
  ○ 日本の新統制経済国家への道が早まっている

 本書を様々な知識の体系の中に位置づけるならば、

「何故、欧米上流階級たちはかように欲望するのか?の論理体系」

を対談によって扱った本だ、と言う事になる。本書ではキリスト教やユダヤ教の教義の根本に遡っての議論が展開されている。それらの議論は目映い程だ。それら欲望と世界観の先に、次の世界の姿が予見できるのである。


 だが、それらの理論は何れも”欲望する事を許容する方便”の哲学に過ぎず、根本にある動機づけの体系は本書からは見えない。金銭や権力に関する心理学は、金銭や権力に固執する人々の根本に不安や人格の歪みを指摘し続けている。それは、共同体的な存在―欧州においてはカソリック―から否定されたまたは自ら否定した人々がしばしば陥る恒常的なストレス状態だと言えるだろう。代償満足により権力と金銭は欲望されていると言っても良い。本書においても”「強欲・拝金」の思想と「愛と恩寵」の思想”の節にラチオは保険から生まれたと記されているが、不安を”補填可能”と言う信念で摩り替えている訳であり、ラチオの根底に不安があることを示している。


 なお、これら哲学の論理を追っている部分で、かような哲学において新しい事物を生成する論理として光と影の対峙について論じている部分(※ルシファーとヤーヴェ、「光の神」と「闇の神」)がある。ここで佐藤がレーニンにも闇と光の思想が影響を与えていると指摘している部分があるが、これは中沢新一の理論である。神学や哲学と言う、思弁の世界においての要素なり存在を生み出す営為が極めて重要であるとしている点が、本書の対談者たちのユダヤ人や欧州人の思考・行動様式に対する深い洞察を示している。


 本書では、何故アメリカのこの金融システムが崩壊したのかについて明白な結論が出来ていないでいる。副島が、今般の恐慌は従来経済学理論から逸脱しているので、言わば予測・預言するしかないと獅子吼するに至るのはそのためである。理性と強欲への批判思想として世界3大宗教を記してはいるのだが。だが、数理的には破綻の理由は極めて簡単に表現できる。

「構成要素間の相互独立性を前提としているシステムが、相互独立性が近似的にも成立しないモードに入ったから」

である。これはリスク・マネジメントのあらゆる領域に登場する普遍現象と言うべきであり、工学者や経済学者は”様々な要素間の独立性”を前提としてモデルを構築し、独立性が成立しない世界にうかうかと突入するのである。

 ラチオのシステムである資本主義システムも当然同様のある種の”無責任さ”に依拠して理論が構築され、その理論どおりにユダヤ人や欧州人たちは世界システムを構築した。”無責任”と表現した理由であるが、構成要素間の独立性があると言う事はある経済主体であるワタシが勝手な儲けの振る舞いに及んでもそれによって市場の行動は変化しない、と言う事を意味するからである。だが、人間は他人の行動を見て行動を変化させるし、ある一貫した意図を持って行動するのであるから、実は要素間の連関性は非常に高い。結果として現れるのは、マーフィーの法則だと言っても良い。

 となると、彼らの理性なるものは普遍性が不足していたと言う事になる。またしても最終的な議論は仏陀の勝利に終わるのだろう。仏陀は、物質現象は因果関係によって成立している、と喝破した。アメリカ流金融システムが依拠していた要素間の独立性の前提を否定する。キリスト教には要素間の独立性を前提とする”甘え”があるのだろうか?彼らは緻密に構成されている筈の神の裏をかこうとしたのだろうか? 神が許した範囲ならば何をやっても許されると言う思考停止があったのだろうか? 次の知的挑戦の領域のように思われる。


 とは言え、ここまでの議論は要すれば理性を信じる人々を更に上回る理性を廣島が代表してここに示して見せたと言うだけの事であり、理性の否定ではない。本書で明らかにされている理性なりラチオと言うものは、単なる行動の一貫性と言うのに過ぎない水準のものだ。より普遍的な法則性を見いだすことが出来る、と考えるのも理性の力であろう。

 実際、欧米や中国等の文化の根底にある”純粋さへの信仰”は幾分軽薄なものである。隣国の韓国を含めて文明に良く浴した国々は、対称性・完全な設計に基づく創作・傷のない芸術品・ぴかぴかの商品・完全に権力が透徹した国家などなどを尊重する。音楽ならば完全な和音やブラスバンドだ。美人は均整が取れて、肌にはシミがあってはいけない。庭園は真っすぐ伸びた樹木や明瞭な色合いの花が明白な直線や定義正しい曲線に沿って配列されなければならない。等々。そこには、理性が生み出すモデルなり一貫性に完全に合致する現象こそが美しく正しく力強いとする信念がある。

 筆者たちは明言していないが、かくして、”完全に権力が浸透した国家”を希求するが故にネオコーポラティズムもまた希求されることとなるのであろう。本書はタイトルと内容が極めて首尾一貫した描写をしていると評価出来る。

 以上のような論の流れの中にあって、本書がその内在する哲学、思想、理念、宗教…を記述していない国と言えば、第1に中国である。流石に中国の論理の記述において対談者たちは十分とは言えない。だが、それは単に許されたページ数の故であろう。この国も同様に理性とそれによる思想、哲学、宗教…に自己と世界を適合させようとする行動様式を持っている人々であるのは間違いない。その概念の中核には、中華思想が存在している。華夷秩序は、”正しい中華文明”を守り、それによって世界を”正しく指導し支配”するための当然の秩序だ、と狂信されることになる。中華を具現していると盲信している彼の支配者たちにとって、”前衛の党たる中国共産党”と言う概念は誠に肌に馴染むものだったのだろう。時代は移り今度は”偉大なる中華”を経済と軍事によって実現する、と言う点で自分たちは存在価値がある、と彼らは妄想していることだろう。少なくとも対談者たちは、普通の大国の常として中国が覇権を目指すのを当然の前提として議論をしている。

 欠落している第2の国は、外ならぬ我が日本である。本書は、第5章において日本社会が劣化し暴走を始めたとしている。そこにおいて官僚制やアメリカに対する従属主義が批判されている。だが、本書が示唆するより根本的な問題は、理性が大方の日本人にとって実は未だに十分には意識されていない知的機能である点に求められるように見える。理性によって作られた哲学や神学の現実社会への妥当性や理性の水準を争っている諸外国とは、根本的に世界が違っている。本書の対談者たちは日本の理念、哲学、宗教…を情報や紙幅の不足から提示していないのではない、と廣島は考える。そもそも日本人にはかような思考様式が”ない”のである。

 意識性の観点から論ずれはこうだ。

「何らかの思想や哲学、法則性を明瞭に意識」

し、

「それらに徹底的に従うように行動すること・行動しているかどうかを意識すること」

が欧米の行動原理、と言うよりも日本人その他少数派以外の文明を築いた世界各民族の標準的思考・行動である。

 例えば釈尊と言えども基本的にはここから外れていないのであり、仏教用語では理性が生成するこれら思想、哲学、法則性、法律…がダルマとかダンマと称されている。釈尊はその法則等の堅固性や永遠性を前提としておらず、釈尊が説くことは実に僅かなものにしか過ぎない。

「世界は苦に満ちている。全ての現象は因果関係によって成立する。よって、因果関係を正しく認識し、苦が起こる原因を適切に認識すべきである。それは、執着に基づく欲望によって生ずるのである。よって、執着を捨て去り、欲望を離れ、激流を渡り、彼岸に至ることが幸福の道である。」

これだけなのだ。これらの定理以外は全て変化し、流転するに過ぎないものと見做されている。だからこそ、今際の際において釈尊は、

「物質現象は移ろい行くものである。怠ることなく修行に励みなさい。」

と言い残したのである。これは非常に柔軟性のある論理体系であるが故に、強欲の論理よりも遙かに高い適合性と予測性を示し続けるのである。

 対して典型的な日本人は、

「自分を律している行動原理を意識しない」

し、

「自分をある行動原理で律しよう」

とも意識しない、努力しない、行動しない。例えば、先般廣島は厚生労働省元次官たちを襲撃した小泉某君の行動が非常に一貫した論理的なものであると評したのであるが、一見如何に奇矯に見えても、その内部に論理性や判断が存在しているかどうかを論じていたのである。その意味で、小泉某君は、日本人と言うよりも欧米人に近いかも知れない。

 とは言え、対談者たちは日本人であるのだから、では理性に基づく哲学、宗教、理念…に代わってこの国を動かしている原理が何であるのかについて記述は怠りない。それは集団としては官僚であり、その官僚を動かす基本的な動機は要すれば、

「自分は困難な試験に次々とクリアした優れた知能を持つ人間であり、それ故に社会を制御する権利がある」

と言うものだ、としている。これは、共有され得る理念、哲学、宗教…に依拠する体系とは異なっている。

 このような洞察からすると、本書が”国家に依存しない思想を国民それぞれが抱くこと”を今後の生き方として示唆するのは、日本人にとって余りにも余りにも激しくハードルが高い。そもそも思想を持ち、それに従って生きると言うシステムが内的に構築されていない人々が多いのだから。

 日本の生き方として本書は日米同盟にロシアを加えて中国に対抗的にバランスを取る地政学主義を提唱しているが、急激に世界が変化している2009年前半、既に中国はアメリカの急所を握り、事実上米中同盟が成立したように思われる。そもそも本書においてもクリントン等の勢力とその背後にいるジェイ・ロックフェラーが中国に極めて近しい事が指摘されている。この点においては、2008年末に刊行された本書は既に古書になりつつある。だが、理性の機能とそれによる欲望許容の心理機構に関する議論の有益性は些かも損なわれていない。

| | Comments (0)

ちょいとした間違い

仏暦2552年06月11日 木曜日

 石川県七尾市およびその近辺でオタマジャクシが天から降ってきた騒ぎありとの由。

 ヨクヨク新聞記事を見れば、最初に降ってきたと言うのは文字どおり降ってきたようで、ぼたぼたと音を立てて降ってきたのが目撃されているようです。それも100匹程ですから、これはなかなかのものです。

 ところが、2回目におたまじゃくしが”降ってきた”と言うのはそこから些か離れた所の住宅の玄関あたりにおたまじゃくしが数匹発見されたと言う話との由。そして、3回目は小鮒がこれまた数匹”発見された”と言うのであり、何れも降ってくるのが見えたと言うのではないようです。

 となると、ホンモノの話は最初のものだけ。2、3回目の話は”村興し”の類でしょう。話題を狙って、悪戯をやったと言う程度の可能性が高いように思われます。

 それにしても、最初に”降ってきた”おたまじゃくし、当日は周囲の気象は平穏だったようですから、大陸あたりで高く竜巻に巻き上げられた犠牲者だったのかも。そのおたまじゃくし、日本の種類ですか、と言う気がします。オタマジャクシを見分けるちょっとした注意力が、事の真実を拓いたかも知れません。

          †

 産業総合研究所の調べによれば、理論的に予想される地中温度よりも東京都心は随分温度が高いとの由。これ勿論、ヒートアイランド現象の一環であろうことは誰もが理解出来ます。

 ところが、地中温度は都心からかなり離れた東久留米も随分高いと言うことになっています。????

 多分答えは、そもそもこの”温度の高さ”なるものは

「ある種の予測値からの外れ」

として定義されていると言うことによるものです。東久留米市付近の予測値、つまりは理論値がちょっとばかり狂っていると言うことです。

 さもなければ、東久留米市付近で何かが起こっていると言うことなんですが、それは大丈夫なの?と心配しなければなりますまい。でも、誰も心配しないんだろうな〜。

 一体、どっちにするんですか?判らない時には取り敢えずどっちかに走ってみる、間違いが判ったらば別の道を走る、と言うのが正しいリスク・マネジメントなのですが。

          †

 和歌山毒入りカレー事件の被告、林真須美被告の死刑確定。

 何しろ動機が不明のままの死刑判決ですから、実にキモチが悪い。リスク・マネジメントの観点からすれば、この一連の裁判はcheck機能を果たせなかったと言う事になる。犯罪の全容を解明できず、よって本質的な再発防止機能を果たせなかった、と言うこと。

 まぁ、随分年を取ってきた廣島の憶測では話は随分子供っぽいものだったかも、と思うのです。被告は毒物を使って夫等を疾病状態にして保険金を詐取したりと言うことをやって来ていました。毒物のさじ加減は、ある意味見事とすら言えるほど制御されていた。

 そのノリで、近所の誰かに嫌がらせをするためとかで”ちょっとばかり”毒を盛ろうとしたのではないでしょうか?毒を盛る器も、大鍋なぞではなかったかも知れない。ところが、

「あ! どばっと こぼしちゃった…」

ちょっとした間違いは、誰にでもあるものです。

          †

 リスク・マネジメントの間違いと誰もが内心思っている新型インフルエンザ対策。医療資源を浪費したと評する識者も出る程です。

 リスクは、くどいのですが損失量×損失発生確率で計算されます。今回のインフルエンザははっきりと流行が始まってから二週間程度でさしたる毒性がないのが明らかになりました。いつものインフルエンザが夏にも出てきた、と言う程度の話。

「感染率×疾病の程度」

の水準で掛け算をすれば、そのリスクはさして大きくはない、と言う事が明らかになった筈でした。まぁ、ちょっとモノを考えている人は、この水準でWHO等を批判する事になります。

          †

 だが、詳細に見れば損失量、即ち感染した場合の死亡率を規定する別の要因がありました。けだし世の中は基本的に多要因で構成されているからです。それは

「当該国及び地域での衛生水準」

です。損失量を規定するパラメータとして、衛生水準は極めて強力だと言うことです。この限りでは、所謂開発途上国の人々が大きな問題と見做される事になります。

 ところが、損失発生確率と言うべき感染率乃至感染数に影響するパラメータ更に遡って考えると、

「人間の移動が大きいかどうか」

が重要である事に気がつきます。人の移動が激しい程、ウィルスを散蒔くことになるのは明らかです。すると、盛大に移動を行っている所謂先進国の人々こそが問題であるのが分かります。

 即ち、「先進国の人間が途上国に赴いてウィルスを散蒔く事」こそが、もっともリスクが大きい行動と言う事になります。

          †

 今回、メキシコから流行が始まり、我が国においてはメキシコ人を忌避するが如き動きをする人々があった由。

 だが、より大きく”メキシコと言う国”の我が国に対するリスク全体を考えてみましょう。

 苦難の明治維新初期、不平等条約を列強から押しつけられる中で初の平等条約としての日墨通商条約が1888年に締結されました。第二次世界大戦で言わば”形式的”に枢軸国と連合国に分かれた時期はあったものの直接戦火を交える事もなく友好関係を築いてきました。つまり、メキシコは日本にとって友人です。もし、日墨通商条約が不平等条約だったらば、明治期の日本はもっと苦難の底に陥り、日本の歴史はもっと悲惨なものになっていたでしょう。

 つまり、メキシコの我が国に対するリスクは全体として誠に微々たるものです。たかが弱毒性のインフルエンザが少々流入しそうな程度のことで目くじらを立てなさんな、と年を食った廣島は思うのであります。

          †

 晋遊舎刊「Linux100%」購入、同封されていたDVDからutuntu8.10をWindowsパーティションに混在してインストールして見ました。

 かつてのLILOの時代のようなじたばたもなく、Windowsにファイルを混在させてのインストールも出来る。インストールは滑らかで実に素晴らしい。だが、いざ立ち上げてみると、IDを認証した後しばらくしたらばマウスカーソルだけが出て、止まってしまいました。6年前の”枯れた”マシンなのですが。
     (-_-;)

 だが、このエプソンダイレクトのマシンはグラフィックチップにATI社のものを使っています。これはLinuxワールドではなかなかサポートされなかったものだったのが、最新の9.04になってサポートされた由。早速ダウンロードしてみたのですが…インストールファイルをコピーした後のシステム組み立ての最中に、スワップファイルを切り直している云々のところで、またしても止まってしまいました。
     (-_-;)

 超漢字をパーティションを切って直接立ち上げ、Windowsから見れば夢を見ているかの如きスピードと構造性で情報処理をする事に慣れ切っている身からすれば、Linuxはそう特徴があるものとは思えません。10年前にWindows Meの代わりにどうしてubuntuが出てこなかったのか、本来のコンピュータワールドの能力はこれくらい当然でしょ…と言う感じです。どうしてWindowsなんて言う隘路に、20年前にあんなに自由のオーラをまとって輝いていたパーソナルコンピューティングシステムが嵌まってしまったのか、としか思えません。

 これは、人類が犯したちょっとした間違いの一つなんでしょう。

          †

 幼稚園と保育園を一元化する施策を推進する由。

 だが、これで起こるのは

「幼稚園が行っていた幼児教育の破壊」

にしか過ぎないでしょう。とにかく子供を安価に預かる場所をもっと作れと言う要求が先にあってこれが行われようとしているのは明らかですからね。幼稚園をつぶして保育園を増やそうとしているだけ。

 本来、もっと教育や子供を育てると言うことに対して投資が行われるべきなのに、話が摩り替えられているのです。

 同様のすり替えは、かつて受験戦争が激しすぎるからと言うことで、初等教育と中等教育で行われる教育内容のレベルが目一杯下げられて、今や学力低下問題を来したのと同じことです。

 これらは、ちょっとした間違い?

          †

 ところで、我が子を育てていてつくづく感じるのは、今や小学校も崩壊しつつあると言うこと。

 親が規範と余裕を失ってぶっ壊れて行く時代に先生の人数と質を向上させることを何もやらなかった。目標は非常に結構なのですがそれを具体的に実現するための方策を欠いたゆとり教育をやってしまった。ここで混乱が生ずれば問題が誰にも明らかになったのですが、従来修得すべき内容の基準を切り下げてしまったのですから、誰も問題に気がつきませんでした…。

 高校や中学校は壊れていく過程で何しろ半分大人になりかかっている世代ですから何かと反抗したり声を上げたりしました。今や大抵の中等教育機関は壊れてしまったので、皆静かにそこを通りすぎようと言う努力を全力で行っています。時折とんでもないイジメが露になります。イジメられないように、子供たちは息を潜めて”過去の歴史においては輝かしかった青春の時代”を通りすぎようとします。

 だが、小学校では児童はそのような反抗が出来ませんから、ぶっ壊れて行っても誰も何も言わない。親もロクに子供と話をしないようになっていますから、親も壊れていっている事を知りません。または、そもそも親が壊れているので、小学校が壊れていると言う認識がないので…。

 小学校での教育が上手く行かないのだが、取り敢えず何とか相当数を大学に進学させる経済力だけはなまじあるものだから、小学校での問題は全て先送りになります。元々日本の企業等は中等教育の成果だけしか評価していませんでしたから、大学卒業者の教育程度が下がっている事に気づかない。勿論、そもそもその組織人たちの質が下がっているて一緒に降下しているのだから、気がつかない。その間に日本企業の競争力は本質的な所で低下する一方ですが、それをカバーするために労賃の切り下げと首切りばかりをやっているから、人間と組織そのものの質が下がっている事に気がつかない。

 かくして、これらの”自動隠蔽機能”がついた初等教育の崩壊は、日本においては静かに進行して行きます。一見、ちょっとした間違いが時折顔を覗かせながら。

          †

 そう言えば、小中一貫教育をやろうと言う自治体が増えています。だが、小学校は初等教育、中学校は中等教育。その内容と質は本来歴然と異なります。一貫するべくもありません。

 いや、一貫させた歴史がありました。先般から少々触れている、ドイツのハウプトシューレ、です。第二次世界大戦後、ギムナジウムやレアル・シューレに行けない水準の子供たちの知的水準を上げようと言う発想でハウプトシューレはどうやら始まったようです。まさに小中一貫教育。小学校の延長としてハウプトシューレと言う中等教育機関が西ドイツのあちこちの州に多数設置されました。

 だが、これはものの見事に失敗に終わりました。開始からわずか30年後、その卒業生はマトモに仕事に就けないことが明らかになりました。1世代にも満たない期間の間に起きた産業の高度化に卒業生たちはまったく対応できなかったのです。

 結局、様々な中間的学校をその上に設置してレアル・シューレ、ギムナジウム、そして大学に繋ぎを作る事でハウプトシューレは完全な破綻を免れている形になっています。まぁ、ドイツの歴史の中でちょっとした間違いではあったのでしょう。

 だが、そのような他山の石があるにも拘わらず、初等教育への投資を増やさずに単に問題を先送りにするだけで小中一貫教育を作ってしまうのは、ちょっとした間違いどころの話ではありますまい。

| | Comments (0)

読了 もう服従しない

仏暦2552年06月05日 金曜日

Ayaan Hirsi Ali,2006,Infidel
邦訳:アヤーン・ヒルシ・アリ、もう服従しない、エクスナレッジ(東京)

 自伝。筆者は、1969年にソマリアで生まれ、ソマリア・サウジアラビア・ケニアで育った女性。これは、ソマリアとケニアが国家として破綻して行ったためである。伝統に従って父親が決定した結婚を嫌って出奔、ドイツを経由してオランダで難民として受け入れられた後に国籍を取得、出身部族の絆とイスラムを捨てる。オランダの下院議員になったが、激しいイスラム批判により命を狙われかつ大きな議論をオランダに巻き起こしたため、更にアメリカに移住、研究を続けている。

 筆者の経歴は目も眩むようなものであり、筆者は幾つもの地域と社会集団と生産様式と理念の間で引き裂かれ、それらの殆どが満足すべき人生を齎す事に失敗し続けていく。それらの規範等はざっと以下のようなものである。

○ 砂漠の遊牧民の名家の子女としての生活及び規範
○ ソマリ族のイスラム的と信じられている風習
○ 亡命先のエチオピアの風習や生活
○ 亡命先のケニア族の風習またはケニアと言う国家
○ サウジアラビアに代表される正統派イスラムとしての生活及び規範
○ イスラム原理主義運動
○ モガディシオ等アフリカの都市部での生活及び規範
○ 欧州的な生活と規範
○ 世界を欧州的な理念で温和に発展させようとする国連諸機関
○ シアド・バーレによる共産主義国家としてのソマリア
○ 筆者の父親が当初目指したアメリカ民主主義型のソマリア
○ 母親が目指した自由で夫が家庭を第1に考えてくれる結婚の理想。それが概ね核家族の規範ともなっている。
○ 戦場と難民としての生活

 これだけ様々な規範と生活様式の間を筆者は渡り歩かざるを得なかった。アノミー状態である。それぞれの理念なり思想なり宗教なりは相互に矛盾しており、それらに従わせようと様々な人々が彼女に情け容赦なく迫ってくるのだ。筆者はイスラム教家庭教師に殴り殺されかけたことすらある。また、彼女は父親や夫から殴打されることを非常に恐れていたようである。これは、男女の肉体的強靭さにさして差がない日本人からは理解し難い部分であろう。それでいて戦争や国家崩壊になれば”現実”が残忍に筆者に迫り、彼女を”かくあるべし”と矯正し続けた人々や宗教等は有効性を失ってしまう。もし彼女がもう少々長くソマリアやケニアに留まっていたらば、今度は砂漠化と言う現実が食いついてきて、様々な規範・習慣・信条・思想・宗教等を長物にするのを目にしたことだろう。

 このような世界で正気でいる方がどうかしているのではないのか。ましてや筆者自身の気質は”従来のやり方とは異なる様式を自ら選んで生きること”を強く志向するものであり、彼女に迫ってくる何れかのスタイルを選択する事を拒否してしまう。

 実際、筆者を含めて家族や近親者たちの少なからざるは好ましくない心理状態に陥り、自分自身を統制出来なくなっている。少なくない女性は、部族乃至イスラムの掟による結婚でかなり不幸な状態にあるものとして描かれている。

 筆者の母親は若いときに自由な結婚を求めてジブチやサウジアラビア等を一人で移動し、父親が決めた結婚相手と子供を設けながらも離婚し、筆者の父親と自由恋愛によって結婚したのだが、その結婚生活は夫の政治運動への傾倒と夫の他の妻への傾倒により極めて冷たいものとなった。彼女は人生の目的を失って精神状態に破綻を来し、自分の子供をしばしば虐待し常に悪口を浴びせている。多くの国の幾多の母親がそうするような、どんな場合でもどんなに変わり果てても我が子を保護し生き長らえさせようとする価値観に移行することに失敗している。

 筆者の妹のハウェヤは精神疾患を患い、文字どおり狂死した。家事の能力が低いままに成長しているが、部族中心の大規模混在家族の習慣では、必ずしも家事能力が高い必要がなかったのも一つの理由のようだ。国連機関で農業支援に従事した事もあるが、そもそも農業をした事がないし、土に微笑んでいれば勝手に植物が繁茂してくれると信じていたようだ。ただでさえソマリ族は基本的に砂漠の遊牧民族であり、しかも筆者とその一族はソマリ族の中で”支配階級”に属するらしいから、この一族は農業技術どころか園芸技術さえ持ち合わせていないのだ。

 筆者自身も一度、部族とイスラムの規範に反した結婚を自ら行って即座に破綻している。この経験があってもなお特定の規範に身を寄せようとはしないのが彼女の資質であると同時に、彼女を引き裂き続けた様々な”がらくたの理想たち”の効果だったようだ。

 他方、筆者の母親の子供たちのもう一人である長兄マハドはアフリカの都市部を転々としながらさしたる事を成し遂げるでもなく、次の世代の家長としての義務を果たすでもなく、だが精神に破綻を来さずに暮らし続けている。砕かれたがらくたの観念たちがせめぎ合う世界で、そのゆらぎに身を任せている人として描かれている。


 このような状況の中で、公平に見て最も彼女を支援し保護し続けたのは部族(支族たるオスマン・マハムド及びさらにその上位の族であるダロッド)一同の相互支援のネットワークである。それは筆者が欧州に渡った後にすら及んでいる。

 次に筆者を支援し続けたのは、近代市民国家のシステムであり、オランダとドイツに代表される。これらの国家は、筆者が難民として認定されるや日本の状況からしても驚くほど手厚い保護と支援を筆者に与えている。

 筆者はイスラムを最も自分にとって敵対的なものであると見做している。それは地域毎の宗旨や風俗に変化はあるものの、筆者が生まれ育った地域の全てに行き渡っており、かつ”対峙的”に把握できる一貫性のある体系を持っているからである。加えて、筆者が接触したイスラムは何れも主体的な解釈はおろか、自発的な理解すら許さない硬直したものであったからだ。さもなければ、旧ユーゴスラビアの”ムスリム”たちのように、単にキリスト教徒ではないと言う程度の薄弱な存在である。主体的な理解をしている人々は誰もいなかった。

 筆者のイスラムの理解においては特に、アラブの石油成金たちに支援された原理主義運動であるイスラム同胞団に対する反発が強い。イスラム同胞団は、伝統的なイスラムからすらも異質なものとして描かれている。そして、イスラム同胞団は死後の世界が完全に実在するものとしているが故に強力なテロリズムを生み出す存在であるとして描かれており、所謂”911を起こしたテロリストたち”が死を厭わないのは当然であるとしている。

 だが実は筆者は部族の一員としての立場・アイデンティティ・習俗をイスラムと同様に最終的に拒否している。然るに、彼女自身は”部族主義””大家族主義”と言うべき概念を持っていないようで、それゆえに対峙的に批判出来ていないだけだと言えるだろう。もし筆者が民族学・民俗学・社会学・心理学をオランダの大学で学んだらば、自分にとって桎梏となっている”存在”をもっと違った形で把握したかも知れない。これにより本書の筆致は専らイスラムを包括的かつ感情的に非難する調子になっているのは訳者が後書きで記すとおりであるし、原著タイトルも”infidel”と宗教との関係に限定したものとなってしまっている。


 この記事を書いている2009年現在、筆者の出身であるソマリ族による大規模な海賊行為が国際問題となっている。海賊は各部族の民兵が転じたものとの報道もある。率直に言って、本書から見てもソマリ族そのものに問題となる要因があると言わざるを得ない。筆者もかような弊を免れない。ソマリ族が大挙して海賊に転職したのは驚くべきことであると同時に、本書を読めば如何にも納得できる。即ち、本書はこの点でも宗教問題を扱ったものと読まれるべきではない。

 本書から読み取れるソマリ族の社会構造なり意識なりの他の問題は、差別である。既に、筆者の出身の部族が支配階級であることを記した。当然、被差別部族が存在する。ソマリア内戦が激しくなり、筆者たちがソマリアに残っている親族をケニアへ勇躍陸路引き連れて来ようとする場面で、ソマリア南部の被差別部族の記述が出てくる。遊牧部族のソマリ族の中で彼らだけが農耕に従事して他のソマリ族に対して食料を供給しているとの事である。しかも、他の部族が今や内戦に陥り難民化しているのであるから、この被差別部族は相対的に非常に優位に立っている筈である。だが、他の部族が通るとうやうやしく道を開け、その卑屈さに対して筆者は嫌悪を記している。差別問題を学んだ者ならば誰もが知っているように、これは暴力の故なのだ。生産様式がまるで異なる人々が何故”同じソマリ族”と言う事になっているのか?遊牧民たちが武力を用いてこの人々を支配し、”同じ部族であるがお前たちは下だ”と強制したから、彼らは卑屈なのである。全く異なる部族であると言う事になったらば、彼らは食料の見返りにより多くのものを要求しただろう。差別とは、

「名目上同じ集団である事を強制する事で、支配と搾取を行うこと」

である。

 かくしてソマリ族たちの未来は極めて簡単に見通せる。彼らが暴力傾向を捨て、地道な生産活動に親しまない限り、彼らの未来は開けないだろう。


 繰り返せば、本書にはありとあらゆる種類の”失敗した理念・宗教・制度等の断片”が登場する。アメリカに渡った筆者は今度は、キリスト教原理主義と果てしない強欲たる現代資本主義に遭遇し、それらをも失敗の理念として見ているかも知れない。現代日本も筆者の苦悩と無縁ではない。明らかに、今や有効性、即ち人を幸せにし社会を永続的に繁栄させるに資さない断片的な規律・習慣・規範などなどが欲望となって相互に矛盾し、激突し合っている。本書から読み取るべき教訓と言うのは、

「理念なり習慣なり宗教なりも所詮は変化して行く現実の世界に合わせて少しづつ変化させざるを得ない」
「様々な理念なり習慣なり宗教なりも所詮は人生の一部分しか支えることが出来ない」

と言う事のように思われる。

| | Comments (0)

一つ覚え

仏暦2552年05月31日 日曜日

 どうも北朝鮮付近がきな臭くなり、アメリカ合衆国が再び戦争を起こして景気回復を図ろうとしている、と言う予測をする識者もおられる昨今。

 ところが、一寸考えてみればわかるのですが、

「戦争による景気上昇と言うのは、国内に生産能力がそれなりにある場合にだけ成り立つもの」

なんですね。政府による借金での出費を国民が喜んで了承し、その出費によって様々な兵器の生産量と関連するモノの生産量が増大し、それによって雇用が増大し、それによって雇用された人たちの消費が増大し…の循環が何回も回る事で景気が良くなる。その効果の大きさを見積もる乗数なんてのも計算されているのです。

 ところが、アメリカ合衆国と言うのは今やあらゆる工業製品の製造を止めてしまっています。彼らは、働くことを止めてしまっています。残っているのはそれこそ兵器の生産程度。これではアメリカ合衆国の景気が良くなるはずもありません。

 しかも、そのアメリカの$そのものが余りにも過剰になってしまい、これ以上の$の印刷はほぼ確実に$の暴落を招くだろう…と言うのは別に廣島が言っていることではなく、流石に昨今はかなりの人たちがその懸念を口にするようになりました。

 第二次世界大戦に突入することで、1929年の恐慌を脱したアメリカ。「馬鹿の一つ覚え」とでも言いましょうか。

「愚かな人間は、少々上手く行ったことが今度は適切ではなくても、繰り返してやろうとするものである」

と言うことわざの類です。

          †

 廣島が巣くう昭島市西部。ここにある拝島駅の東側は広大なヤードになっており、その中に「日本一長い踏切」があります、今日まで。(^_^;) これが今日をもって廃止されるのです。これが地元ではかなり強い反発を引き起こしています。

 事情を説明する必要があります。東西に伸びるこのヤードによって昭島市西部は南北に分断されているのですが、昨今ヤードの南側、拝島駅より東に数百m行ったあたりには超大型スーパーに大型食品スーパー等々が次々と建ち並び、ヤードの北側に拡大しつつあるマンション群の住人は南側に行かないと生活が成り立たなくなっています。

 ところが、南側に行くにはこの踏切が大動脈。ただし、狭い踏切なので、クルマは通れません。一日1200台の自転車他大勢の歩行者の通行があるそうな。この踏切を通らないならば、東に200m程行ったところにあるガードを通らなければなりませんが、このガードの道路は歩道もなくて実に狭いくせにクルマの交通量がかなり多く、歩行者や自転車には危険窮まりないものです。部分的に徳洲会病院が開設の際に敷地を割って歩道橋を提供してくれましたが、焼け石に水。クルマにとっても2車線もロクに取れない程の幅しかなく、難渋するところです。

 さて、この踏切から数百m西に行った拝島駅の改良工事が進められ、南北自由通路が設定され、自転車が乗せられる大型のエレベータも設置されたから、踏切を閉鎖する…と言うのが市役所の方針な訳です。何しろこの踏切では過去3回も死亡事故が起きている!のですから。

 だが、廣島もこの説明に騙されてしまいました。その死亡事故の内2件は実に1960年代初頭に起きているのです。

 この時代の踏切がどのようなものだったのか、良く覚えていますよ。今のように電車が来ると自動的に警報が鳴って遮断機が降りると言うような踏切はありませんでした。殆どの踏切はこれと言う設備はなし。自動的に警報音が鳴る踏切は上等の部類で、ごく一部の往来の激しい踏切だけが常駐の係員がタイミングを見計らいながら遮断機を手動で上下するようになっていました。

 これだけでも十分危険なのですが、それだけではありませんでした。鉄路を走るのは電車よりも蒸気機関車やディーゼル車の方がずっと多く、それらの走行速度はそれぞれ違っており、歩行者はぎりぎりの場合どのタイミングで横断すれば良いのか判断に苦しんだに違いありません。勿論、蒸気機関車やディーゼル機関車の前方視認性は電車よりもずっと悪いものでした。つまり、当時は今よりも歩行者や自転車の踏切横断1回あたりの事故の発生確率はずっと高かった筈なのです。

 この踏切で最後に起きた死亡事故は1974年だったそうな。この時の踏切設備がどのようなものだったのか、は分かりません。…と言うようなことが分かったのは、5月上旬、踏切を閉鎖すると言う市役所からの通知のビラの中ででした。

 さて、説明が長くなってしまいました。このヤードの南北歩行者交通経路の大幅変更は、

「危険の転換」

になる可能性大です。「踏切での事故の危険性」がなくなる代わりに、「ガード下での交通事故の危険性」が非常に大きくなるでしょう。何しろ、今に至っても、ガード付近の道路を拡張する工事は何も行われていないのです。

 死亡事故が起きても不思議ではなく、死亡リスクはどちらが大きいのか、些か微妙なように思われます。少なくとも、”日々の労力の損失”と言うリスクについては明らかです。

          †

 ところで、どうしてこんなやり方が行われたのでしょうか?

 まぁ、ここからは憶測なのですが、こうです。拝島駅南口には例によって商店街があるのですが、狭い道路に殆ど誰も振り向かない古びた商店がだらだらと並んでいるだけです。廣島自身も良くお世話になる店と言えば、2、3軒しかありません。単純に南北の交通を改善したらば、大方の人は超大型スーパーや大型食品スーパー等の新興商業施設に流れ込み、この商店街は最後の一撃で消滅するでしょう。ヤード北側の住民をお客として誘導しようと言う事でこうしたのだ…、と言われても仕方がないように見えます。

 良いモノやサービスを提供しなければどんな組織でも店でも流行るようにはなりません。人口重心から言えば日本の外れとしか表現しようのない旭川市にある旭山動物公園がこの努力を行ってきた代表的な組織です。かつては、このような努力はたった1度の人生ならばやってみようじゃないかと言う人々が結構成し遂げたものです。だが、今や日本では熱心に働く人は随分少なくなりました。

 自ら生きようとする存在でなければ本当に自分の人生を生き、人様の役に立つことも出来ますまい。言わば社会的にとっくに死んだ組織とか人とかが、誰かの利益にとって都合が良いものだからだらだらと生き長らえさせられている…それがここ何十年も日本が繰り返し繰り返し繰り返しやって来た事だったのでしょう。

| | Comments (0)

« May 2009 | Main | July 2009 »