« January 2009 | Main | March 2009 »

川崎駅付近散策

仏暦2552年02月28日 土曜日

 おおっっっっ、大旧聞だ〜、12月7日日曜日。(^_^;) 川崎駅付近を家族で散策して来ましたので、あまり行く事もない川崎の印象なぞを。

 川崎駅で下車したところ、丁度昼食の時間であり我が子が例によっておなかすいた!と言い出すので、土地勘もないとて西口のショッピングセンター・ラゾーナへ。ここはららぽーとと同じ三井不動産による経営で建物の構造とノリは豊洲のららぽーとと良く似ている。地主は東芝、エレベータ・エスカレータも東芝。買い物をしている人たちが随分若い。買い物と言っても昨今の例に漏れず、あまり買物袋を見ない、つまり散策しているだけ。ユニクロのクリスマスバージョンの袋は目立つ。他のショッピングセンターと異なり、コートを着ている人が多い、つまりクルマで来ている人は少ない。

 ここで京風のうどん屋で昼食。従業員の会話からすれば、この日の客の入りは例外的に多かったようだ。モノを買っている人はあまり多くないが、とにかく食べる所はどこも行列。値段の張るうどんと天丼のセットを食べる。味はおもしろいし店内の飾りつけも興味深いが、量が。しかも、これで1350円とは。

 次に、今日の目的の「人体の不思議展」を見るために、東口の川崎ルフロンへ。東口の町の作りは、大阪のキタにどうも似ている。何かとノリが大阪だ。阪神電鉄が標準軌、京浜急行も標準軌、だから似ているのか?途中、川崎ニッコーホテル前を通ったらば、ランチバイキングが随分安く良さげ。先程の高く量が少ない昼食に不満のかみさんは大いに残念がっていた。

 人体の不思議展は、我が子もそれなりに興味を示して見ていた。実際のご遺体をプラスチックで埋封して標本化したものがずらり。胎児の標本も幾体か並んでいたが、これらの子は生まれてこなかったのだと思うと、些か感傷を感じる。解説が乏しい。廣島は一応の解剖学の知識があるからそれなりに関心を持って見ていられるが、そうでない人たちにとっては少し細かい所になると、どうか。解剖学的な情報が乏しすぎる点で、新春に見たシベリアマンモスの子供の展覧会を思い出した。パネルは人体の様々な現象についての解説ばかりで、構造や機能についての解説がない。標本のスライスや展開の仕方が凝っているのも、解説がないのでどう見たらば良いのか廣島でさえ一瞬迷う時があり、却って仇になっている。只管”実物”の強烈さによって見せていると言う感じになってしまっている。脳を手に取って重さを感じてみようと言うコーナーもあった。実際に生きていた人の脳を標本とは言え手に取らせると言う体験は、強烈に”人体はモノだ”と言う主張である。それにしても、こういう展示会は大抵は客が集めやすい東京都心でやるものなのだが、どうして横浜ですらない川崎なのだろうか?川崎ルフロンの非常に強い意志と言う事なのか?ここは三菱系の建物のようであるが。とは言え、興行としては十分な人の入り。

 川崎大師に向かうためやや離れた京浜急行川崎駅へ。駅前には全部で4組も街頭の歌歌いグループが出ていて、かなり大勢の人を集めていた。これはなかなかおもしろい。線路寄りの道に迷い込み、10円まんじゅう屋に遭遇、買い込む。案内板は整備されていない。地元の人間が分かれば良い、と言う調子だが、まぁだらだら歩きが少し楽しい街ではある。

 京浜急行大師線は短い区間ながら複線になっており、本数も多い。駅の中に宝くじ売り場があり、かみさんが年末ジャンボを買い込む。120周年記念車両と言う事でやや古い車両に古めかしい塗装をした列車に当たった。天井の扇風機なぞ、昨今はほとんど見ない。乗り心地は流石に標準軌で、狭軌に良くあるゆらゆらと言う感じはない。線路の両側特に北側は工場地帯、南側はある程度の住宅街。これらの住居はここ10年ほどで出来た由。駅名が港町→鈴木町と言うのが、手抜きの趣とも思える。鈴木町の次が大師前。

 駅前から川崎大師迄は門前町が連なっており、みやげ物屋・せんべい屋・まんじゅう屋・飴屋・古物屋・ダルマ屋・焼き肉屋・うどん屋などなど多彩。門は東に向かっており、駅は伽藍の西端よりも更に西に位置しているので、門前町は敷地の北側をずっと添って行き、東から回り込むように連なっている。随分前に自転車(ランドナー)で一人門前迄到達したことがあるが、どうやら南側から門を見て帰った、と合点が行った。敷地に入るのは初めて。

 門前町から敷地での人通りはほどほど。遅い七五三の姿と、余りにも早すぎると思うのだが、成人式らしき姿を見る。我が家はやや早いお正月と言う風情。おみくじを引く。末吉。何ごとも我慢して最後に成果が出る、との相。最後まで我慢してあえなく会社が倒産とか就職が決まらず悲惨な境遇に移行すると言う方も昨今は少なくないのであろうことを思えば、ありがたい事に廣島にはこのご託宣が適合しそうである。伽藍は流石の結構。経蔵も立派なものがあって中を見ることが出来るが、見えているお経は展示用と言う感じ、実際に使っているのではあるまい。例によって賽銭を上げて少々祈願、例によってこれと言う願い事も思いつかない。只管良く生きるのみ。

 たまたま五重塔が開陳されていたので、時間ぎりぎりだったが入る。なかをぐるぐる回って登り、またぐるぐる回って地下へ。上へ行くのは左回りだったが、良いのか?本来五重塔は仏舎利塔つまりゴータマ・シッダルタさんの墓標であるが、本物であろう仏舎利は日本では名古屋の日泰寺にしかなく、それも五重塔ではなく別に良い建物を設えてそこに安置している。さて、ここの五重塔はこの寺の歴代住職の画像を陳列し、地下には麗しく設えられた仏像が鎮座していた。地下が本尊だから、下向きに右回りで良いのか。鉄筋コンクリート製。塔内の案内のおばさんが小学校高学年とおぼしき女子3人連れと気安く話をしていた。地元の子らしい。このあたりでは、子供の遊び場も川崎大師。

 最後に、南側の池付近を散策。軽鴨にかなり大きな亀、そしていついているらしい栄養の良さそうな数匹の猫がいる。我が子は先程購入したまんじゅうを千切って鴨に与えたり、猫と戯れたり。敷地の中に数件露店が出ているが、早々に店仕舞い。

 帰路、門前町で少々買い物。どの店もちゃんと店員を並べ、道行く参拝者への声掛けも怠りない。我が子は自分の小遣いで財布に入れる小さなダルマのお守りを祖父母への土産分もありとて3つ450円で購入、おまけで同じものを一つ貰う。途中の飴屋で子供は試供品を口に。その先の店で我が子用にべっこう飴購入、またもやおまけで少し形の悪いものを貰い、同時に口の中に飴二つの幸せ。良くモノを貰う人だ。かみさんは、家で使うために海苔、出汁粉。このあたりは、廣島の目から見ても物価が安い。門前町でモノが安いと思えると言うのは随分果報なことである。

 印象深い川崎大師付近から再び川崎駅へ。駅の敷地の一隅に、その場で焼くピザ屋あり、他にはない。これはやはりどう見ても大阪のノリである。大層な人出、先程の轍を踏まぬように人の流れに沿って行く。途中、チケットショップとペットショップが並んでいた。犬猫も安い。廣島が職場近くで時々使うコンビニ・ポプラの割引チケットがあった。どうも珍しく不思議の感あるもロットが500円と大きいので買わず。先程はほとんど人が入っていないように見えたショッピングビル川崎BEもかなりの人出。ここの翠香園と言う中華料理店で夕食。なかなか腹が膨れ、美味。先程の昼食とは大分違う。この店は、有名な洋食チェーン会社ライオンの系列であり、横浜中華街の同じ名前の店とは異なっているらしい。

 と言う訳で、川崎小旅行はおしまい。まためぼしい催しでもあれば来たいね〜と言うのが家族の共通意見でした。でも、片道電車で1時間ちょいはちょっと遠いです。まぁ、その程度の時間を毎日廣島は職場まで往復しているんですけどね。
(^_^;)

| | Comments (0)

鳩は考えていない・人間は考えられるハズである

仏暦2552年02月21日 土曜日

 いつもの電車の通勤路。乗り換えの駅で、例によってドバトが集っている一帯があります。当然、そのあたりは鳩糞だらけになる。

 一体ここは鳩にとってどういう意味があるのか。そもそもドバトとはどういう生き物かと言えば、中央アジアを原産として岩山の穴あたりを塒とする鳥との由。その目から見ると、件の一帯にドバトが集るのは自然と言うものでした。

 と言うのは、そこはプラットフォームから跨線橋の上の改札口に通じる階段口。階段はしっかりした屋根と壁があり、洞窟さながら。つまり、鳩たちにとっては先祖の故郷である岩山の穴の入り口あたりに相当します。

 また、そこはプラットフォームの一部ですから、どこにであれ直に逃げられる・どいにでも行ける広い空間がすぐそこにあります。

 このプラットフォームが朝のラッシュのない番線なのも関係しているかも知れません。東京の朝のラッシュは凄まじいものです。横柄でモノに動じない鳩たちも流石に近寄るのを躊躇うのでしょう、何しろうっかりすると踏み殺されてしまいます。

 ところが、鳩がそのように判断めいたことで然るべき理由でその場所に集っているらしいにも拘わらず、人間である駅長以下駅員諸君は全く適切な判断が出来ていないようです。少なくとも、鳩は同じところに集るようだ、と言う事実を素直に認める必要があるのですが、例えば鳩が留まりそうな配管等に鳩避けのプラスチックの設えを設置すると言うようなこともしません。時たまプラットフォームにちらばりまくっている鳩糞を掃除するばかりです。プラスチックの設えは一つ100円程度のものであり、それを配管等に幾つかくるりと巻いてぱちんと止めれば、長い刺が突き出て鳩はそこに留まれなくなってしまいます。実に簡単なことであり、駅の美化の手間暇省きと乗客のこの鉄道への愛着の向上を考えれば、実に安くて利益の大きい投資なのに。

 鳩を含めて、判断力と言うような側面における鳥類の知能は大したものではありません。人間は勿論格段に優れた判断力と行動の柔軟性を有しています。だが、この駅の駅員諸氏はほんの一寸の判断力発揮を怠っているために大いに損をしています。

 だが、同様のことは、ヨクヨク見れば今や日本中に蔓延しているのが分かろうと言うものです。

| | Comments (0)

喝上げにどう対抗するか

仏暦2552年02月15日 日曜日

 子供たちの非行が理由の分からない殺人迄出揃い、何でもアリの世界になってしまって久しくなりました。喫煙に目くじらを立てていた時代は、大麻の流行を思えば実に長閑でした。今の世の乱れを思えば、子供たちの様子がおかしくなった時点でもっともっと真剣に議論と思考と研究が行われるべきだったのでありましょう。

 これら非行の中でも、なかなか表沙汰にならず、それでいて被害者の心理を確実に蝕む非行が

「喝上げ」

のようです。非行があった場合に先生に、警官に、親に言え…と言うのが表の道なのでしょうが、そんな事が出来るならば自殺になるまでイジメに苦しむ子供なぞ出よう筈がありません。喝上げに対してどのように対処すべきかを大人たちがそれなりに教えると言う事も、これ裏の道ながら必要な事でありましょう。

 で、廣島があれこれ想像を逞しくするに、第1の方法は実に簡単です。

「おこづかいをさっさと使ってしまう」

と言うことですね。ないものは、ないのであります。実に簡単明瞭な方法です。無駄遣いは止めろ!と言うご意見もありましょうが、喝上げされてしまうよりは遙かにマシと言うものです。

 だが、非行少年少女の方も年々悪賢くなる一方です。一見した所裕福な家庭の、色も白く、勉強も出来て問題なさそうな娘ですら恐喝の手先になろうかと言う有り様。単純に使っちゃった、と言うのはどうも弱いかも知れません。もう少々捻ったやり方として、

「学級費とかに寄付してしまう」

と言うのはどうでしょうか? 自分で使う分はそれなりにとっておいて、皆に使ってもらっちゃいました、と言うと、流石の非行少年少女たちもなかなか手を出しにくいかも知れません。

 勿論、この手のガキ共がこの程度で引っ込むと思うべきではありません。ひょっとしたらば、

「○○君は貯金を溜め込んでいるばかりで変な奴だよ〜!」

とかと皆に言い触らして、挙げ句は

「○○君の貯金通帳は僕らが預かっておいた方が彼もマトモな人間になって良いんじゃないのか?」

とワケの分からない事を言い出すかも知れません。常識的に考えて狂人の発言ではありますが、どさくさに紛れると世の中結構こういうのも通ってしまうと言うのも”裏の道”の一つであります。このようなやり口に対しては、これまた別のどさくさに紛れて貯金通帳を取り返してしまう、と言うあたりが策なのかも知れません。

 何れにしても、喝上げをするような連中は確信犯で、下手に知能がそれなりにあり、それでいてその能力を生かして世の中のために働こうなんぞとはこれっぽっちも思っていません。矯正は容易ではないでしょう。勿論、暴力も適宜組み合わせて世の中を渡って行こうとします。連中の行く末が、一見した所ビジネスマンの現代風暴力団員でなくて何でありましょうか。

 「蛇の道は蛇」 正しい道を通すためには、色々なことをしなければならない、と言う話です。

| | Comments (0)

そのカバンに怒りを2

仏暦2552年02月11日 水曜日

 またしても鞄談義です。日本にある全ての存在はぽんこつである、と達観すればこれも別段問題ではないとも言えますが、何しろ次々生産されては消耗されていくものなのだから、少々は概念に基づいて改善があってもよさそうなもんじゃないか〜と流石に思うのであります。それと現実とのずれが廣島を些か苛立たせます。

          †

 先般記した、通勤途上で良く見かける某学園の中高生たち。カバンが例によって制服の一種で、他のカバンを併せて持ってきても良いが、少なくともそのカバンを持つことは必須のようです。

 が、この”制服カバン”、どう見ても使いにくそう。ほとんど直方体と言う感じで、要するに何でも入りそうな顔を一見しているのですが、肝心のノートや教科書が明らかに入れづらそう。と言うのは、A4の紙を入れようとすると、はた目にもぎりぎりになってしまうのです。B4はどう見ても入らない。

 中も仕切りがなさそうです。となると、教科書やノートは他の雑具と共にごちゃまぜになってしまいます。電車の中で読書や勉強をしている子たち(※失礼ながら、その比率はそう高くはないのですが)は、別のカバンを持ってきてその中からノート等を取り出しています。そうでなくても、別カバンを持ってきている比率は非常に高い。

 明らかにこの学校のカバンは”賢く”ありません。子供たちはカバンについてもあれこれ考える事もなく、その分頭が良くなることもありません。

          †

 この某学園の高校よりも入学試験の偏差値が高い某私立高校。この私立高校のカバンも、やっぱりほとんど直方体です。だが、一回り大きい。緩く曲げて何とかB4は入るだろうし、教科書あたりは楽勝でしょう。

 だが、単純に馬鹿でかいだけだから、どうも生徒たちは苦労しているようです。このようにちょっと”賢い”学校でも、問題を根本的に解決すること、つまりいつも持ち歩く必要がある荷物は何でどれだけの量があるのか、それをどう運んだら良いのか、をきちんと計算していない。使う方も、その程度に荷物を自己制限する、と言うことが出来ていない。単純に、カバンを大きくするのが”解決”だと思っている。

 そう言えば、幼稚園から大学まである別の学園の生徒も良く通勤電車の中でみかけるのですが、中学高校のカバンは、もっと大きい。もはや傍目からは子供に荷運びの労役を課しているようにしか見えなかったりします。

          †

 カバンを熱く語るならば、当然中身についてもある程度言及せねばなりますまい。(^.^)

 小学生の我が子、何故か理科の教科書だけは担任の指示で学校に置かされています。どうしてそうしているのか、なかなか理由を教えてくれなかったのですが、先日言う事には、理科の教科書は忘れやすいからずっと置いておけ、だそうな。

 そんな馬鹿な! これでは、学校で今何をやっているのか、親は把握する事が出来ません。大体、音楽とか社会はどうなるの? どうも今どきの学校は

「何故それをやるのか、非合理と言うよりもそもそも不可解な事柄」

に満ちているように思えます。昔の学校は、やたらに走らせてウサギ跳びをやったり、大声を出させたり、非合理ではあるが一応お題目は分かる事をやっていました。今、我が子の学校を見ていると、”不可解”と言うしかありません。

 閑話休題。

 そう言えば、”アメリカやカナダの教科書はずっと学校に置いています、宿題なんてありませんから〜、だからカバンも重たくありません〜”と言う話が羨望を持って語られた時期がありました。まぁ、学校がきちんと授業時間中に徹底理解させてくれるならそれもアリなのかも知れませんし、少なくともそのような収納場所が潤沢に学校に設置されていることは羨むべきことでもあります。だが、現代のように明らかに初等教育も崩壊しつつある時代にはマトモな親は家庭学習を十分にやらせる必要を熱烈に感じます。教科書が一応は手元になければなりますまいに。

 ま、でも教科書が余りにも貧弱だから、いずれ教科書を持ち帰っても無意味か〜。

          †

 考えてみれば、小学校からしてカバンについては”賢くない”ものです。

 我が子のことを見てみれば、そもそも持ち物はランドセルからはみ出すことが非常にしばしば。教科書が薄いのになんたるこっちゃ。リコーダーだ、体操服だ、工作で作ったモノのお持ち帰りだ、と言うのが実に多い。特に、体操服は体育があった度に自宅に持ち帰って洗濯しなければなりませんから、かなりの頻度で持ち運びがあります。そうそう、給食係になった週末は給食配膳用の服を自宅に持ち帰り、洗って次の月曜日に持ってこなければなりません。

 つまり、現代の小学校においてはランドセルと言うのは、必要な形と容量がまるでないのです。思えば、昔の教科書と言うのは、実に薄っぺらなだけではなく、小さな紙を使っていました。これならばまぁ小さなランドセルを作っても楽勝に入ってしまうでしょう。だが、現代はA4判の時代であり、ランドセルは異様に大きくなっています。にも拘わらず、入らない! 重い! 公立小学校に制服がないなんてのはウソで、ランドセルと言う立派な制服があり、彼ら彼女らは毎日この箱その他を運搬しているのです。

 今やランドセルの効能と言うのは唯一、”この子は今通学途上です”と言う事を大人たちに示すことでしかありません。だが、だからと言って子供たちを保護と育成の観点から見ている大人なんてまずいやしませんから、これも無意味なことです。

 かくして、小学生の通学風景は、子供荷物運び人夫の行列とでも言うべきものがあります。このような非合理を強制され続ける子供たちが、賢く育つハズもありますまい。

          †

 直方体系も含めて、巨大なカバンと言うのは昨今電車の中で何かと害を広げつつあるように見えます。と言うのも、このようにずぼらにでかいカバンはきちんと膝の上に載せにくい。載せると、その上で本やノートを広げると言う事が出来なくなってしまう。かくして、カバンを足元に置き、狭い電車を更に狭くする青少年どころか大人も、増えたこと増えたこと…。

 網棚に載せれば良いだけだと思うし、載せたから取られると言う程不安全な訳でもない。網棚に載せるだけの体力がないのかと思えば、これまたそうでもない。力が有り余っているとしか見えない運動部員こそ盛大に大股を開き、そのおみ足の間に超巨大カバンを置いています。どうも単純に、

「荷物をどこにどう振り分けておくのかを随時考え、それに基づいて自分を制御するだけの知能がない」

ようです。

 ちなみに、足元にでかいカバンを置いて顰蹙を振りまく大人を最初にはっきり意識したのは10年程も前、都心でのマンマシンインタフェース関連の学会に参加した際の電車の中でした。その学会に参加したマイクロソフト日本法人の従業員がそうやって超巨大カバンを大股開きの足元に置いていたのが、実に印象的でした。

 ま、この会社が作るソフトウェアは、操作性もルーチンも整理整頓が出来ていないと言う点で同類項ではあります。お蔭で、セキュリティホールだらけになる。安全や効率のためには

「3S:整理・整頓・清潔」

が必須なのは、どこの領域でも同じこと。

          †

 使えそうで使えないように思えるカバンの一種として、ここ何年か非常に増えた”リュックサック族”を思い出しました。山に遊びに行く人たちではないのです。町の中を動き回るだけなのに、何故リュック?

 ファッション性云々は元々廣島もさして関心はありません。だが、町中で動き回る際には物の出し入れは結構頻繁です。当然リュックサックの便は非常に悪くなる。優秀なショルダーバッグは幾らでもあります。と言うよりも、昨今のビジネスバッグはほぼ全てショルダーバッグになりました。それなのにどうして彼らはリュックサックなのか? 不思議です。書類や書籍が多いであろう事を考えると、リュックサックは書類を傷つける代物でもあります。

 ちなみに、先に記した”馬鹿でかカバン顰蹙君”の走りだった某日本マイクロソフト社従業員のカバンも、リュックサックでした。


 と言う具合に不思議に思って何年も過ぎてみたらば、今年になって、リュックサックに全財産なのか、入れて町や電車のプラットフォームをさ迷うホームレス風の人たちが増えてきたことです。

          †

 女性ものカバンって、女性を愚弄しているか、さもなければ女性を愚民化するために販売されているように見えます。

 何しろ、デザインはまぁそれなりに色々あるかも知れませんが、明らかに容量は必要に足りない。複数のカバンを持ち歩いている女性はごく普通です。

 必要な仕切りもないようです。女性向けならば、小さなお化粧セット、携帯電話、ポータブルプレイヤーあたりを納める設えが必要に思えるのですが。あの50万円カバン・バーキンだとそういうのがあるんでしょうか。

 そう言えば、過日激しい雨の日、良く朝の通勤電車で見かける女性が半分濡れ鼠になって乗り込んできたのですが、例によっての出来の悪そうなカバンのサイドポケットからケータイを取り出して、ハンカチで必死に雨水を拭っていました。一体いつまでやるんだ〜と言う程延々と拭っておりました。ケータイ程度すら保護できないカバンは、およそ失格です。そして、そんなカバンを選んでいる貴女も。

 しかも、装飾性を重視しているために重い。クッションばかりが厚い廣島の通勤カバンのようなもんです。

 そればかりか上蓋もいい加減。きちんと閉じないものが沢山あります。カバンを落としたような場合に悲惨な状況になります。勿論、スリに対しても弱い。彼女たちは常にカバンを意識していなければなりますまい。詰まらない事に女性の頭脳を費やさせるべきではありません。

 かくして、彼女たちは満足できないカバンの間をあれこれさ迷い、カバンの数だけは増え、その津波はただでさえ都市建設に失敗したものだから狭隘で使い勝手の悪い住宅に押し寄せる事になります…。ひ〜、やめてくれ〜!

         †

 職場の同僚等の通勤風景を良く思い出してみると、廣島のようにカバンはいつも同じで、どうしても荷物が多いと言う場合には紙袋あたりを追加で持つと言う人と、結構その日の荷物の量と内容によってカバンを変えてくる人がいます。男性であっても、変えてくる人もいる。

 仕事のカバンを日によって変える、と言うのは廣島にとっては想像を絶します。だが、やっている方々にとっては逆に、

「仕事の内容が日によって違うのに、どうしてカバンを変えないの?」
「毎日きちんと翌日の準備をしない程あなたはずぼらなの?」

と言う話になるのでしょう。忘れ物続出ではないか、と思えるのですが。

 廣島はどうやっているのかと言うと、そもそもやや無理をしてでも持っていくモノを減らしてみたりもして調整しています。

         †

 そう言えば、我々現世人類クロマニヨン人と平行して生存し、3万年ほど前に滅亡してしまったネアンデルタール人の遺跡のありさまはクロマニヨン人と大分異なっているのだそうな。

 その一つの面として、例えば火を起こした場所が洞窟の中のあちこちから発見されるとか。これがクロマニヨン人の遺跡だと、あまり煙が籠もらず雨風も当たらない場所の一点に大体集約されているようです。つまり、

「どこで何をするのか、がまるで決まっていなかった」

これは、アフォーダンスがない、と言うこと。その分、ネアンデルタール人は余計にアタマを使い、そのクセその結果はより貧弱なものだったでしょう。

 同様に、カバンをあれこれ変えるとその中のどこに何をどう入れておくのかがその都度変わる訳だから、これは人間の頭脳にとって大いに負担になる筈です。アフォーダンスがないカバンの使い方と言っても宜しい。だが、仕事が違うのだからアフォーダンスも違う、と言う風な文脈的な記憶内容の切り替えが強い人たちにとっては、カバンを変えたほうが良い、と言う事になるのでしょう。これは、領域知能のどこが強いのか、の話なのかも知れません。

 と言っても、ネアンデルタール人がTPOによって火を起こす場所を変えていたとはとても思えませんが。

         †

 何てことを何日にも亘ってだらだら書き連ねている内に、件の通勤カバンのチャックの握り手の一つが突然折れて取れてしまいました。うがががっ!

| | Comments (0)

荒廃のアラフォー社会

仏暦2552年02月04日 水曜日

 2008年度の所謂流行語大賞は「グー!」と「アラフォー」に贈られた由。

 来年の事を言えば鬼が笑う。昨年の事を言えば、何が笑いますかな。銭儲けと他人に優越感を示すのをもって生きているような人たちが、呑気過ぎると笑うでしょうか。だが、ミネルヴァのフクロウは夕闇に飛ぶ。どちらもバブルの爪痕の様相を呈している点で、絶望的に時代を良く映しているように思えます。

 まず、アラフォー。そもそもこの”around forty”の世代の女性と言うのは、要するにバブルで遊んでしまった世代なのですね。自分たちは楽しかったかも知れないのですが、トータルに見て彼女たちの労働の成果とその消費は世の中全体にとって+・−どっちに転んだのか? 実際、非婚率も急激に高まってきたとば口ですから、子供もロクに作っていません。彼女たちが40年後に高齢に至った場合、独居老人の群れとなって社会の大きな負担になるのはほぼ確実と言うオマケもついています。勿論、彼女たちに見放されている同年代程度の男性も同じような具合です。皆様方、御覚悟を。

 ”グー!”の方は、これを言い出した女流コメディアン自身がどうやらアラフォー世代。長年下積みで、ようやっとブレークしたらば例によって単にテレビで馬鹿をやる事によって随分の銭金を手にすると言う害悪を世の中に垂れ流しております。害悪、と言うのは、

「子供に”真面目に勉強してまともに働け!”と言えなくなってしまう」

と言うことです。勿論、ホリエモンやら某白い会社の社長等の株価紳士、親の七光りと資産で羽振りを利かせているお偉いさん2世等も同様に世の中に害毒を流しております。

 閑話休題。

 バブルと言うのは

「生産の成果がきちんとした所に身につかないものだから銭金が下らないものに集ってそれらの値段を急激に吊り上げる」

と言う面が濃厚です。日本は、訳の分からない田舎の道路やら鉄道やら、お偉いさんの持ち上げ、地主の贅沢、質の悪い郊外の一戸建て、楽しげなクルマ、嬉しい飲み会等等にお金を浪費するクセがすっかり身についてしまっていました。無駄遣いが祟ってお金の使い方が分からなくなっている状態です。

 身を持ち崩してそこで反省すればまだしも、無駄遣い、つまり間違ったお金や労働の使い方はちっとも改まっていなかったと言うことです。曰く、

「馬鹿は死ななきゃ直らない」

          †

 バブルの爪痕、と言うよりもバブルを作り出した原因そのもの―バブル的生産―がちっとも改まっていないのは、他の所にも見られるものです。

 昨今、”世代会計”と言う概念が持て囃されているようです。税金や年金の世代間転移をきちんと計算しよう、と言うことです。この観点からすると、勿論現在の50才代後半以前の世代は黒字、若い世代程大幅赤字。廣島の世代あたりが丁度とんとんと言う所のようです。つまり、今の団塊の世代より前の老人たちはバブル的生産の産物、と言う事です。

 この世代会計と同様に、世代間での隠れた所得転移は他にも沢山ある筈です。


 すぐ目につくところでは、廣島自身もその被害を目一杯被った”バブル後のマンション転売不可能による所得転移”現象があります。

 かつては、まず小さなマンションを購入し、それが少し値上がりした所で転売し一戸建てを購入する、と言う人生経路が成立していました。廣島は別にそれをねらった訳ではなかったのですが、勤務先は給料が低いクセに宛行扶持(あてがいぶち)の宿舎はタコ部屋(※何しろ、6畳部屋に二人押し込まれていたのです)同然。これでは本を置く場所すらありません。止むなく賃貸アパートを借りていました。これを地主の身勝手で潰すから出て行け、と言うのでバブルがまだ十分に収まっていない状態で今のマンションを購入せざるを得なかったのです。その後、マンションの値段は激減し、売るに売れなくなりました。

 同様の目にあった方は実に多いもののようです。つまり、この世代は上の世代からババを引かされた訳であり、実質的な所得転移が行われました。まぁ、それらの一戸建ては30年そこそこで潰れる、交通不便な所にあるのが大部分な訳で、本当にそれがお得だったのかどうかはどうも判然としませんが。


 今、求職で苦しみ抜いている若い方々にはもっとはっきり見える世代間所得転移も存在します。そう、高齢の世代は終身雇用により大きな生涯所得を得ています。終身雇用によって生産力が維持向上されたならそれは世の中全体としてペイするのですが、かなりの所終身雇用に甘えてとんでもないことばかりをやって来たと言うのが実情と言わざるを得ません

          †

 とは言え、逆の配分と言うものもあります。その配分は、親から子へ、と言う家庭毎の回路によって行われています。例えば現在、驚くべきことに大学への進学率は50%です。”団塊の世代”は15%でした。また、子供たちの世代は年々潤沢に青春を謳歌できるようになりました。その大学での勉強は年々どんどん楽になっています。入学試験での競争も実質的に消滅してしまいました。また、性交経験年数はどんどん下がっています。およそ動物の論理では、交尾と言うのは最も資源が必要で最も安全な所で行われるべきもの。それを働いたこともない若い衆がやってのける訳ですから、どれだけ若者が基本的には最低限の暮らしは確保された呑気な状態に置かれているかは明らかです。

 とは言え、この呑気さは将来の絶望とコインの裏表に過ぎません。彼ら彼女らの両親と祖父母たちは、彼らから目一杯将来の職業を奪っていっており、それを隠蔽するために甘い青春を与えられているようにすら見えます。


 そう言えば、環境問題も子孫に対する負の遺産と言う点では同じことでしょう。先においしい所にありついて食べるだけ食べて後は野となれ山となれ、と言うのは世界的にみれば英米が良くやる手口なのですが、同じような事を世代間でやっているのが今の日本と言う事になりましょうか。随分前に廣島は応用心理学会で「子孫に対する概念」と言う発表をしたことがあります。環境問題の本質と言うのは資源や資産の世代間転移を意識するかどうかなのだ、と言う趣旨の論考でした。我ながら天才的に時代を先取りしていたようですが、注目されることもなく、時既に遅しの観があります。(自爆)

          †

 結局のところ、世代間の所得転移だなんだと言うことを言い出さざるを得ない社会と言うのは、子孫を自らの一部と見做して、黙々と様々な財産を積み上げて手渡し続けていく・子孫もそれを受けとり先祖を思う、と言う民族なり部族なり国なり郷土なりに関わる行動様式が粉々に砕け散ってしまった社会だ、と言うことのようです。

| | Comments (0)

« January 2009 | Main | March 2009 »