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荒っぽい説得

仏暦2551年12月30日 火曜日

 米国次期副大統領のバイデンと湾岸戦争で勇名を馳せたパウエルの両名が揃いも揃って”オバマ次期大統領の就任直後に重大なXが起こる”と述べている事が様々な憶測を呼んでいる由。かなり大方の見方は、それはイランへのアメリカ軍またはイスラエル軍の攻撃である、とするものです。

 イランへの攻撃が本当にあり得るのかとか適切であるとか意味がどうのとかの議論を一切抜きにして、アメリカ大統領に開戦を決意させるように説得するにはどうしたら良いのか、を一寸考えてみましょうか。つまり、

「今のアメリカが置かれた状況を良く良く考えてみる」

と言うことをやってみましょう。

 「神の啓示があった」と言うのが最初に思いつく口実なのですが、先の大統領選挙からも明らかなように、さしものアメリカ流キリスト教原理主義の猛威も取り敢えずは些か低減したようですから、これは案としてボツのように思えます。

 「イランは$を石油代金として受けとらない事にしている。これは、今我が国が置かれている金融危機→$危機にとって重大な脅威である」と言うのはどうでしょうか。少なくない識者がこれを現実的なイランへの攻撃理由として挙げています。だが、イラクのようにイランを完全支配して$決済に戻すのでもない限り、少々効き目は薄いように思えます。そして、軍事的なその可能性はかなり低い。何しろ彼の国はイラクのような真っ平な砂漠の国ではなく、屏風のように幾層もの山脈と砂漠が織り成して自然の要害を形成しており、ここに大量の陸軍を送り込むのはかなり辛そうです。

 「イランはイラク及びアフガニスタンへの武力や兵員の補給基地となっているので、これを叩き潰すのが勝利への道だ」と言うのはどうでしょうか。これも、少なくない識者が現実的なイランへの攻撃理由として挙げています。でも、これって悪名高いインパール作戦の論理と同じですね。援蒋ラインを遮断すると言うのがインパール作戦実施の論拠となっていました。山を越えての無謀な攻撃と言う点もそっくりだし、そもそもその支援ラインを遮断した程度で中国人の反日運動やイラク人とアフガニスタン人の反米運動そのものも止まるべくもない、と言う点もそっくりです。

 主たる理由だけではなく、副次的な理由も勿論必要です。最も強い説得は「大統領、来年度の我が軍の予算を大幅に削らざるを得ません!」と言うものでしょう。兵器と兵員の備蓄がある内にやってしまおう、と言うものです。戦争と言うものを、あたかも決定的な優越者の決定戦―相撲での横綱を決めること―であるかのように考え勝ちな日本人と異なり、彼らは”ある重要なタイミングにおける一時的な勝利”と言う事をも尊重します。今ここで$危機等を回避し数年の経済的平和を買えるならば、戦力を注ぎ込んで消耗してしまうのは非常にメリットがある、と彼らは考えます。実際そうですし。

 別の副次的な理由として「世界は今経済的な大混乱状態ですから、我が軍が少々活動したとしても、我が国に積極的に盾突く国はありますまい」と言うのも、結構ありそうな理由のように思えます。


 でまぁ、そんな攻撃が行われる可能性はどうなのでしょうか? 横田基地に離発着する飛行機の動きを見てみると、12月23日と言うクリスマス寸前の日に、空中給油機が見えた限りで3機も着陸して来ました。東京の近辺には空中給油が必要な訓練なぞ行われていませんで、ディエゴ・ガルシアあたりへの中継で飛んできたと考えるべきでしょう。この基地ではC-130の夜間離発着訓練が良く行われるのですが、この頻度も最近非常に高くなっています。明らかにこの基地所在ではないC-130も飛来してきています。

 方や、イスラエルはまたしてもガザに対して猛烈な爆撃を行っています。国連軍を調停者として引き込む作戦だ、との分析をする識者もおられますが、さてどうか。人間は結構馬鹿なもので、本気で軍事的に周辺アラブおよびイスラム諸国を軍事的に制圧出来ると勘違いしている可能性も十分にありますから、ここからイランとの戦争に繋がる可能性もありましょう。イスラエルは核兵器を隠し持っているから周辺アラブ・イスラム諸国に核を打ちまくると言う可能性を論じる識者すらおられます。となると、別に説得するまでもなくオバマ新大統領は早々に戦争に引きずり込まれる事になります。


 さてさて、何れにしても大乱になる2009年、どうなりますやら。

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読了 小坂井敏晶 責任という虚構


小坂井敏晶 2008年 責任という虚構 東京大学出版会(東京)

 ”責任”と言う概念は通常の因果論に立脚していない独自の帰属様式を持っている事を論じたもの。筆者は、長年フランスに在住して大学で教鞭を執っている心理学者である。

 帰属、と言う用語は心理学でごく基礎的なものである。ある事象の原因をある事項に求める行動や思考をこう称する。帰属と言う殊更の学術用語が存在すると言うのも、心理学全体がある人間のある一つの行動すら”極めて多数の原因”の結果として存在する事をそれまでの学問的な成果の結果適切と認めたからである。人間は情報処理の簡約化の必要性等から、多数あって無限に広がる”原因”の中からごく少数の”原因”をそれと決め込むのであり、そのような情報処理こそが科学的な因果律の観点からすれば特殊な思考なり行動と言うことになる。

 だが、このようなpsychologistの常識と、日常用語なり概念の延長の上に心理学が存在すると信じている、または心理学を暗黙の内に侮蔑している大方の人々(その中には生理学者や生物学者等他の領域の科学者たちも入る)の常識の間には果てしない隔絶が存在する。そこにおいて、心理学関連の啓蒙書や一般書はその厚みを増すこととなる。

 当然、筆者も他の心理学者の例に漏れず、本書の前半では人間の行動は極めて多数の”意識によらない””意図によらない”原因によって形成されること、それは責任論が持ち出される典型的な事象である犯罪行為においても同様である事を縷々論じる。”責任”を同定する際に必然的に生じる誤りである”冤罪”や、そもそも”意図”が現象を追認するに過ぎない現象に過ぎないことにも怠りなく目配りをする。究極的な責任の取らせ方である死刑においてさえ、その執行者は非常に強いトラウマを受けるために、あたかも執行者が死刑囚の死の”原因”ではないかのような様々な小細工が行われている事にまで多くのページを割いている。

 それにも関わらず、責任論は”特定の個人”に原因を”帰属”するのである。それはどうしてそうする必要があるのか? ここからが本書の面目躍如たるものがある。前半の議論は科学としての心理学に立脚していたが、後半は一転してやや思弁的な色彩を帯びる事になる。即ち、仮説を記すことになる。その結論は、社会の紐帯を維持するために必要な共同体性の虚構の一環だ、と要約できるであろう。意識と行動の分離を見出し続けている心理学にとって、これも基本的には驚くべき結論でもない。

 廣島は職歴がかなり特異であり、人間の行動や心理から離れてより一般的な各事象間の連関についても職歴の初期に相当突っ込んで考察を行い、刑法的な責任論と因果論が分離されていることを当然に認識してもいた。では、廣島にとって本書は退屈なものだったのか、幾つかのエピソードに面白みを感じるもの以上のものでしかなかったのかと言えば、そうではない。

「責任を徹底的に因果論的に突き詰めてみたらばどうなるか? またそのように思考する人はどのような行動に至るだろうか?」

を逆に考えてみたからである。その例の一人が今や我々の目の前に登場してしまったのではないか? 元厚生事務次官を連続襲撃した小泉毅君(46才)がその人のように思える。

 と言うのは、彼は「子供の時に可愛がっていた愛犬チロを34年前に保健所で屠殺されたことへの復讐として厚生事務次官たちを襲った」と一貫して述べている。通常の責任論では理解し難い論理の飛躍と言う事になるのだが、逆に彼は因果論としては極めて適切な判断をしていた側面がある。そもそも、

「ペット等として適切に処遇できない動物は人間の厳密な管理下から放逐する(※つまりその犬をどこかに捨ててしまう)だけでは留まらず、処分しなければならない」

と言うのは、言わば”sanitary”の思想である。あれとこれとは不潔なもの・害があるものと認識し、それを排除・抹消することによって健康やより良い生活や素晴らしい人生を得ることが出来ると信じ行動すること、これがsanitaryの思想であると定義できる。確かに彼が子供の頃に野良犬は駆逐された。彼の4年年長の廣島もその時代に野良犬達がsanitizeされて行くのを目の当たりにしたものである。

 なお、2008年現在の目からは信じられない事だが、野良犬たちがsanitizeされる以前は結構多数の非飼い犬がそこらへんにいたものだ。野良犬と野犬と言う区別さえ存在した。野良犬と言うのは人家のあたりを人間とあまり対立しないどころか半飼い犬的にすら振る舞って徘徊する非飼い犬であり、野犬と言うのはより野性性が強く人間と対立的な犬を意味した。sanitary思想にどっぷりと浸かった2008年現在の目からすれば「飼い犬であるか保健所で屠殺か」であるが、当時は「飼い犬であるか野良犬であるか野犬であるか屠殺」だった。小泉某君が愛犬をどうして野良犬や野犬にしてあげてはいけないのか、と考えたとしても不思議ではない。

 さて、sanitaryの思想の背後には、

「世界の全ては人間の良き意図の下に統一的に統制されなければならない」

と言う神権的な観念が存在している。sanitaryの思想はかような信念をも含めた広範囲で強力な信仰体系であり、対象として、即ち原因として認識する事が可能である。かくして小泉某君の論理としては、厚生省こそsanitaryの推進を行う官庁であり、愛犬を殺すことを強制した父親もまたsanitaryの思想に侵されていたのだから、sanitaryの権化である厚生事務次官経験者たちを殺すことが愛犬の復讐だ…となる。

 この論理が極端であるように見えるならば、そもそもsanitaryの思想はある意味非常に過激で危険な面すらあるものである事を思い出せば良い。ナチズムが断種やユダヤ人の絶滅によって社会を”浄化”しようとした事、エコロジーの走りのような思想だったこと、衛生政策に非常に熱心だったこと、あたりを思い浮かべれば良いだろう。過激なエコロジーは、しばしばsanitaryの思想の裏返しである。”完全に人間が手を出してはいけないconservationすべき地域や生物種がいる””この生物種は絶滅してはいけない”と言うことは一つの極端な統制の形であり、それら以外の地域や生物は人間が完全に支配して良い・支配しなければならない、と言う事になるからだ。シー・シェパードのようなエコロジカルテロリストたちを思い浮かべれば良い。どんな思想なり存在なりも過ぎたるは及ばざるが如しと言うべきか。

 可能性を付け加えよう。彼は佐賀大学理工学部中退後は恵まれない人生を、だが粘り強く生きてきたようだ。常に自分自身が社会や父親からsanitizeされると言う観念を抱くことになったのかも知れず、いよいよsanitaryの思想を何らかの形で意識する事になったのかも知れない。

 であるから、小泉某君に対しては彼の論理が飛躍していると非難してはいけないのだろう。”その”因果関係の論理に忠実に従うのは多くの道の中の一つに過ぎない、と反論する事が出来る。それは同時に彼の罪の認識なり矯正への道でもある。sanitaryの思想が彼に苦しみを与えた”一つの”原因であったのは確かであるが、この思想の極端さや問題点を指摘し続けることこそ本当の”愛犬の復讐”だとも言える。自分がその犬を欲しがると言う欲望を抱いた原因をこそ問題視する仏教的な方向もあり得る。アメリカ流に、ペットは自分の家族の一員であると言う観念が世の中に不足していた事に原因を帰属することも出来た筈である。彼自身が”sanitary思想の権化をsanitizeすると言う自己矛盾”に陥っていたことをも指摘できるだろう。かような原因の多様性の観点から彼の”視野の狭さ”なり”論理の狭窄”をこそ批判するべきなのであろう。

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第4波

仏暦2551年12月26日 金曜日

 今年を振り返り、廣島は少々内心忸怩たるものがあります。それは、本ブログで”肝心なこと”をはっきり記すことをしなかった事であります。年の瀬でありますから、懴悔と共にはっきり記してしまいましょう。それは、

「この大恐慌には第3波どころか、日本の場合第4波が来る可能性がある」

と言うことです。第4波とは、

「日本の国債及び密接な関連がある日本の地方自治体の地方債のデフォルト」

です。

 これまで廣島は、第1波をアメリカの金融破綻、第2波を実物経済の不況、第3波を$国債のデフォルトだ、と便宜的に区分・表現して来ました。これらの段階それぞれについて指摘する識者は数多いし、部分的にそれぞれの関連性について論じている識者もおられます。日本の円国債のデフォルトの可能性についてもとうの昔から言及している識者は何人もおられます。

 問題は、これらが一連の津波となって繋がってくる可能性がはっきり見えてきた、と言うことです。何しろ、実物経済の悪化は税収の激減となり、方やケインズ的経済対策と資金供給のための政府支出は増大します。金融緩和どころか資金を民間企業へ直接貸し付けまたは注入すると言う荒業も昨今は当然のように使われるようになりました。米国FRBと同様ついに日銀もコマーシャルペーパーの直接買い付けに乗り出しましたが、現状ではかなりの部分が帰ってこないでしょう。必然的にアメリカも日本も財政は更に困窮します。

 ちなみに、廣島は”commercial paperってなんだろ〜?”と思っていたのですが、要するにそれは無担保割引手形のことなんでありました。なるほど、こう表現すればすぐ分かる。このような概念の表現において日本語はかなり優越していると思えます。例えばこの用語について言えば、短期←→長期、担保つき←→担保なし、割引方式か否か+手形、と言うそれぞれの概念が組み合わされて構築されていると言う事が一目瞭然です。概念の表現では漢字を用いる、と言うのが日本語のやり方。commercial paperと”固有名詞”のように表現されてしまうと、きちんと辞典を引かないと見当もつきません。

 閑話休題。

 第3段階と表現したアメリカ国債のデフォルトが起きた場合、何しろ日本は官民合わせて大量の幾らになっているのか本当の所は分からないアメリカ国債を買って(と言うより、買わされて)いますから、それら”あった筈のお金”が消えてしまいます。自分の貯金のかなりの部分が消えた場合に何が起きるのか? ある企業の資産の部に掲載された資産のかなりの部分が突然消滅した場合に何が起きるのか? 中央政府も地方政府(地方自治体)も、税収が入ればそれを単年度程度でさっさと消費して国民や住民へのサービスに回すのが原則ですが、ある程度の積立金も勿論持っています。その積立金のかなりの部分が消滅したらばどうなるのか? 想像するのは簡単です。

 大体この”あった筈のお金がなくなっちゃった”現象は既にその一部分は起こってしまいました。今般のアメリカでの住宅サブプライムローンの崩壊によって様々なアメリカ合衆国の各民間機関が売り出した債券がチャラになり、日本の各投資機関等は合計十兆円単位の損失を被ったようです。それで既にこのありさまです。アメリカ国債がデフォルトまたはデフォルトに近い程に下落してしまった場合、その損失は百兆円単位の損失になるのでしょう。

 そして、もし日本の国債及びそれと密接な関連がある地方債がデフォルトしたらば、その損失は1000兆円に達する事になります。国債の価格が暴落した場合も似たような状況になる。要するに、波が後になる程、一桁単位で損害が酷くなって行きます。


 多くの論者が、それぞれの段階からの回復方法について個別にあれこれと論を述べています。だが、それらの大方はそれぞれの段階毎の危機対処方策に留まっているように思えます。”危機対処に過ぎない”とわざわざ称するのは、この1〜4波は密接な関連があり、かつ危機対処では除去出来ない恒常的な要因によって進むからです。それは、

「生産性を失ったアメリカ合衆国がその生産する以上に消費、それも凄まじい消費をしていること」

と言うαでありωである問題です。第1波は、赤字まみれのアメリカ合衆国が贅沢を続けるために無理やり錬金術を行った結果として生じました。世界中に対して単なる紙切れであるに過ぎないアメリカ発の債券を大量に売りまくったことで生じたのです。

 ちなみに、目下$は円以外に対して高騰していますが、これは

「本来は$紙幣の増刷→$の価格下落によって弁済されるべきだったアメリカ合衆国の各種赤字を、アメリカ発の各種債券と言う$代替紙幣で(ごまかして)弁済していた」

から、このような珍妙な現象が生じていると言えます。本当は$紙幣がもっとじゃぶじゃぶの状態であるべきだったのを、うまいことごまかして$紙幣の発行を少なくし、その代わりに担保の裏づけの全くない債券を印刷し続けていた訳です。その債券が紙くずである事が判明した瞬間、紙くずの裏づけである$(と言う紙くず)が不足した訳です。

 本当の”中身”とは生産性なり生産力なりのこと。その外側はアメリカ国債と言うころもで、更にその外側はアメリカ$と言うころもで包まれています。その外側をアメリカ発の各種債券と言うころもで包んでいたのが、今般目出度くそのころもがあっさりと破れ去った訳です。当然第3波は、アメリカ$が機軸通貨であるのをいいことにアメリカ人たちがこさえた膨大な借金が返せなくなる事となります。

 アメリカの官民は実に狡猾であり、ころもの外にまたころも…を何段も重ねて腐った中身(生産性のなさ)を隠すことに長けています。かような具合で、アメリカ合衆国をそのままにしておくと、つまり$を基軸通貨として使用し続けると、また同じことをやらかすでしょう。危機対処は、単に危機のサイクルを全力を上げてほんの一寸押し戻すに過ぎません。

 本当に次の世代の生産に寄与する生産と消費のサイクルを発見し、$及びアメリカ合衆国をそのサイクルからまずは外してから経済のサイクルを回し始めない限り、第1波が第4波に進行する可能性はかなり高くなったと考えるべきもののようです。

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不毛な復讐関係の作り方

仏暦2551年12月22日 月曜日

 群馬県前橋市の勢多農林高校の文化祭に、卒業生で専門学校学生の男性が傷害の意図を以てナイフを持参して侵入、予てから”文化祭で卒業生の首をもらいに行く”等と称する怪文書が散まかれていたことから警察が警戒していたため逮捕となった由。

 昨今、この手の

「在学当時いじめにあったので復讐」

と言う事件はかなり多いので大いに気になっているのです。このような事件の場合、”その犯人がそのような特性を持っていたから…”と何の科学的根拠もなく言い逃れるのが昨今の日本の常ではありますが、やはりそれは非常におかしい。

 まずもって、イジメ事件はいじめる方が悪いに決まっていることをきちんと認めるべきです。我が国はどうやら確かに後進国らしく、昨今はお金がなくなって来たので先進国のフリをする余裕もなくなってきたようなのですが、やはりイジメは人権問題か犯罪であるときちんと認識する必要がある。よって、イジメに対しては私的な復讐は認めず、その代わりに公的な活動としてイジメをする側を処罰し矯正する機能が整備されているのが大前提です。

 次に、いじめられた方がかかる陰惨な復讐心に何年も燃えてしまうことがあり得るのを率直に認めるべきです。つまり、イジメは、大抵の人が想像する以上に損害が大きい事を率直に認めるべきです。


 さて、ここまで来て、ようやっと今回の事件のような

「何年間もイジメに対する復讐心を燃やし続けるような憎悪」

がどこから来るのか、を科学的に検討することが出来ます。とは言え、目下のところそのようなマトモな研究はないので、仮説を幾つか提起するしかない。それは、

「非常に悔しいこと、腹立たしいことに対するストレス対処様式」

つまり、ストレスコーピングの観点から見ることです。

 例えば廣島の場合、青森市の中学校の理科の教師からイジメに合いました。これは何も廣島だけではなく、クラスの中の大勢がそう言う目にあった。で、高校に入ったらば、あろうことかその理科教師の兄の国語教師から同様の目に合いました。額に何人もがマジックペンで字をかかれた事もあります。この兄弟、当時の青森市で有名な暴力教師だったのであります。幾ら昔のこととは言え、教師の体罰として許容範囲を超えていました。

 ちなみに、この兄弟の下にもう一人同じような奴がいたと言う噂もありましたが、幸いにしてそっちとはぶち当たることはありませんでした。(^_^;)

 閑話休題。

 さてこんな場合のストレスコーピングですが、ストレスコーピングのやり方は概ね3つの次元から構成されていると言うのが目下の定説です。その中の一つの次元がストレッサーとの距離で動くこと、つまり接近―回避の次元です。ストレス反応そのものを扱おうとするか、ストレスの原因つまりストレッサーを扱おうとするのか、が第2の次元。第3の次元は、心の中で処理しようとするか、実際の行動に出るのか、の側面です。

 廣島の場合、物理的にも青森市から両親が引っ越し、自分自身も学校もその後の仕事場も親戚関係も青森市の外だった事で、文字どおりこれらの教師たちから”行動的に回避”し続ける事になりました。教師と言う職業を選ぶ事もなかったので、内的な面でもこの暴力教師兄弟を”回避”したものです。

 同じ次元のこの逆のやりかたが”接近”。ストレスの源に逆に接近する事です。この場合だと、教師になり、暴力教師ではない立派な教師になる事でストレッサーを意識の中で”克服”する、つまりストレッサーになり続けているイメージを意識の中で矮小化する事です。ストレス反応を扱いながらも、行動的に接近する解決方法です。

 別の接近の仕方もあります。これら暴力教師に阿り、良くいいつけを聞き、これら暴力教師の言いなりになる事です。これならばもう攻撃される事もないだろう…と確信する事です。まぁ、当時そんな事をやって、本当にそれが効果があったかどうかは判然としないのですが。

 このように、ストレスコーピングにも色々なやり方がある訳で、その中でどうして今回の事件の容疑者のように「ストレス反応に焦点を当て・行動的に・接近する」方法を、それも今や現実的にはストレッサーにはなっていない元ストレッサーを抹消しようと言う行動に出るのか…?これはまだまだ基礎的な研究の必要がありそうです。


 とは言え、現在の一応の定説である以上の図式の中からもある程度はこの容疑者の行動の原因は推定出来そうに思えます。

 まず、この容疑者はずっとストレスに悩まされ続けているのだろう、と言うことです。ストレスは別のストレッサーによるものであれ、言わば足し算となってストレスを上昇させるのはほぼ確実です。で、ストレスは一種の覚醒現象ですから、イジメと言う記憶をいつまでも覚醒させられるストレスが加わっていたと言う訳です。

 勿論、イジメを思い出させる出来事にも満ちていたのでしょう。容疑者は近隣の在住ですから、物理的な”回避”が出来ていません。専門学校生だと言うのですが、一体どこにあるどのような専門の学校でしょうか?農業関連と言う事になると、いやでも高校時代の嫌な記憶を思いだし続ける事になります。友人関係に新しいものが出来ない専門学校であるならば、これまた高校時代の嫌な記憶が継続し勝ちになります。

 ところで、考えてみればこれから益々激増するであろうフリーターや失業者の立場と言うのは、仕事によって新しい人間関係の拡がりや住所の変化と言う事がないものです。勿論、ストレスも非常に、常に高い。

 日本は、不毛な人間関係を作り続ける社会になるのかも知れません。

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日本人の知的水準は低い

仏暦2551年12月18日 木曜日

 「犯罪と非行」と言うごくマイナーな雑誌があります。日立みらい財団と言うところが出している、犯罪防止と矯正に関する準学術雑誌と言う位置づけのようです。

 で、この2008年08月第157号の巻頭言は京都大学総長(当時)の尾池和夫氏で、概略の文意は次のようなものです。

○ 今回この巻頭言の依頼を受けて、初めて本書を繙き、かつ犯罪や非行について考えてみた。自分自身が犯罪や非行についてそもそも殆ど考えた事がないのに気づいてショックを受けた。

○ 犯罪概念と非行概念は一緒のものではない。シソーラスを調べてみたらば、一致していない。犯罪は実定法によって規定されるものである。他方、非行は倫理や合理性の観点から成すべきではない事・社会に結果として損害を与える行動、の意味であろう。

○ よって、犯罪と非行の二つを防止しようとすると、従来自分(尾池)が主張して来たように、自分で現地に行く・現在を見る自分で見る・現象を書く、の3つで犯罪と非行についても認識するべきである。

○ 犯罪と非行の防止について考えると、そもそも日本人の知的水準の低さが問題だと思われる。

○ 知的水準が低いことの論拠であるが、相応の企業経営者や国会議員と会談したりその議論を聞いてそう感じさせられる。例えば、ある講演である大学を非難している国会議員がいたが、当の大学の総長が出席していた。また、クローン技術反対と言う人たちも、クローン技術が何であるのかを理解しているのではなく、マスコミの論調を繰り返しているだけである。

○ 教育水準を上げる事によって知的水準を上げ、もって犯罪と非行を防止するべきである。特に保育園・幼稚園・小学校での教育とその教育者が重要であろう。


 京都大学総長が「日本の知的水準は低い」と喝破した訳で、politically correctなモノの言い方をしていてはもう駄目だと言う事なのでしょう。

 実際、人を騙したり言いくるめる知能と技術が発達しているか、権力を握ってそれを傘にして人を黙らせたりあらぬことを言わせることばかりが跋扈していると言う印象が昨今いよいよ強いことです。例えば、今ここで”京都大学総長がこう言ったから…”と廣島は述べたのですが、それはあくまで

「事実や真実をより良く掌握している筈である学者がこう言ったのだから…」

の意味なのです。だが、今の日本人の圧倒的多数は、

「京都大学総長と言う”権威”がこう言ったのだから…」

と廣島は引き合いに出したのだ、と理解するでしょう。そうじゃない! そのように理解することこそ、”知性が乏しい”ことなのです。しかも、廣島は以下のように、彼の論が妥当であるかを検討します。だが、圧倒的多数の今の日本人はそのような検討をしません。

 尾池元総長の以上の議論には、ですから少々問題と欠落が幾つかあるように思えます。第1点は、

「日本人の知性のなさの根源には、”事実・真実”と言う概念がなく、よって”事実・真実”を希求すると言う行動も意志もないことがある」

のを十分看破出来ていないことです。

 第2の点は、”知的水準の向上→犯罪・非行の防止”の因果関係は本当に確かか?と言う点の論証が甘い事です。一時的にかっとなったり錯乱して犯罪を犯すと言う事は常にあり得ます。だから、この部分の因果関係は少々緩いように思えます。とは言え、少なくとも知的水準を上げる、即ち”事実の存在を認める・事実を希求する”と言う前提が形成されれば、少なくとも”非行”を防止する事は可能でしょう。社会全体にとって好ましくないことが何か、を皆が理解するようになれば、その行動は押さえ込まれるでしょう。最初にシソーラスまで持ち出して犯罪と非行を分離したのは適切でした。

 第3の点は第2の点よりも更に微妙です。知性の向上を初等教育の段階が最も重要であるとしている事です。如何にも初等教育なくば中等教育なく、中等教育なくば高等教育もありません。だが、堂々たる大学の総長が初等教育に問題あり、と言うことはある意味では高等教育での責任放棄と取られても仕方がない。知性を身につける大道が大学でなくて何でありましょうか? それとも、天下の京都大学の学生にも初等中等教育に問題あり、よって高等教育では矯正不可能と言わざるを得ない人物が増えているのでしょうか? であれば、読者は恐ろしい現実をこの巻頭言の背後に読み取るべきなのかも知れません。

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概念としての”自分探し”の歴史

仏暦2551年12月15日 月曜日

 一時期流行った言葉に、自分探しと言うのがありました。本当の自分の形、自分がやるべき仕事、自分がやりたいことを探しに行く…、と言うような意味です。

 丁度”フリーター”と言う言葉が元々の意味である”自分のやりたい仕事を見つけるために殊更に様々な職業を転々とする”と言う意味で使われていたのと表裏一体の用語です。時期的には、1980年代半ばからマスコミが喧伝するようになった用語と言えます。

 自分探しをやる青年が軽薄だ、結局は何も出来ない、つまりは自我同一性を確立できていない人間だ、と言う批判が当時から識者なる人々からあったものです。だが、彼らにはより重要な視点が欠けていたように思えます。それは、

「どうして自分の居場所をどこかに探しに行くのか?どうして自分の居場所を”作れない”のか?」

と言う事です。

 青年が、未知の世界に憧れるのは当然の事とされて来ました。であるから、どこか別の所に自分の居場所や自分のやるべき事がある、と想像するのは不自然ではありません。だが、どこかにあるものを探してその地位を入手すると言うのは、何やら商品交換の臭いがします。既に存在する”売っているモノ”をゲットするだけでは、進歩は実はないのですが、そのような静止的な世界観が背後にちらちらと見える。どこかに行ってそこに収まると言うのならば、それは先祖代々の地位に収まると言う、封建時代でやって来たことと実は同じになってしまいます。

 自分探しの奨励、と言うやり方には別の視点もあり得ます。それは、帝国主義との関連です。自分の居場所を植民地に求めると言うことを事実上奨励してきたに等しいと言えます。

 より重要な生き方は、

「ある場所で自分のいる所や仕事を作る」

と言う生き方でしょう。”自分作り”です。”自分作り”を社会として大いに奨励してはいけないのか? どうして自分探しが喧伝され、また目立つ現象となったのか? 社会が閉塞状態になりヨソモノである新しい存在に、つまりは自分作りをする青年にとって徹底的に排除的になったからではないでしょうか? 当の青年たちもまた閉塞状況に思考を拘束され、”ここでは何も出来ない”と思い込んでしまわされていたのです。

 そんなこんなの疑似封建主義的なやり方や考え方をずるずるとやっている内に、昨今は自分探しと言う言い方は鳴りを潜めています。イラクで武装組織に殺害された日本青年に”自分探しをしていた軽薄な人間”と言うあらぬ非難が浴びせられたのがこの用語が使われた最後の時期だったかも知れません。そして、凄まじい青年層への労働搾取の強化により、あっと言う間にホームレスに転落させられかねない社会となりました。


 かくして、自分探しどころか、自分作りも出来ない日本となってしまったように見えます。どうやら、社会にとって必要な新しい事物さえも生み出せない疑似封建社会が縮小しながら永続している状態のようです。

 

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中島一夫「収容所文学論」読了

仏暦2551年12月07日 日曜日

中島一夫 2008年 「収容所文学論」 論創社

 評論集。読んだこともない著者の名前ばかりが羅列されており、内容の概略紹介もないため、極めて読解が困難になっている。後書きで著者は「…過労死を余儀なくされた、またあるいは過労自殺寸前にまで追い込まれた近しい人々の姿を重ね合わせずにいられない。本書は無謀にも、そうした本を読む余力や余暇の時間など全く持ち合わせていない人々にこそ最も読まれたいと夢見ている。」と記しているが、まさに夢以外の何物でもない。

 取り敢えず本書で紹介されている作家等を目次どおりに配列すれば以下のとおりである。それぞれを筆者は概略どのように評しているかのメモと、廣島のコメントを付記する。

○ 石原吉郎
  本書の評論の根幹を成す。シベリア抑留体験を描いた作家であり、シベリア抑留生活においては最低の物資の交換すらあり、勿論労働の激しい搾取もあった。そこに、資本主義の根本たる商品性を見ようとする作家だ、と評される。この節では、本書全体の基調を成す、商品交換の飛躍性や、商品交換とある種のイメージ操作や行動の等価性の概念も合わせて提示される。
  構成として、この部分は言わば公理系であるから、その当否を取り敢えず論じるべくもない。だが、公理系である故に、”最初に遡って”批判の対象となる。それは、この交換論においては以下に折々記したように

「商品交換、別けても労働力の商品化を暗黙に強制されると言う意味での収容所性は導出出来る」

のだが、

「搾取概念、特に日本において顕著である地主による直接間接の搾取及び公的資金による機会利益の損失の側面が全く描かれない」

と言うことである。収容所においては搾取は何よりも、ソ連により旧軍人から行われたのであり、旧軍人同士の関係にはなかったのである。

 勿論、本書は行動が全て交換に基づくように強制されることとそれに付随する現象に焦点を当てているのであるからそれは別段不当ではないのだが、そのような大きな”穴”があることははっきり明示されて然るべきだろう。と言うのも先に記したように、筆者は後書きで「過労死等により苦しんでいる人々に読んでもらいたい」として本書を提示しているのであるが、かような悲惨は多分に搾取に伴うものであり、交換の暗黙の強制による疎外に必ずしも伴うものではないからだ。

 本書の最大の問題は、かような現在の日本を描写するためには必ずしも適切ではない概念を適用している事にある。とは言え、この社会の”息苦しさ”とそれによる”この状況を拒否できないし、発言することすら出来ない心理”を描くためには極めて適切な観点を提示している。

○ ピエル・パオロ・パゾリーニ
  イタリアのアーティスト。アノミー化した個人が消費熱に完全服従しているが故に、消費社会はファシズムだ、と主張。特にプロレタリアートとブルジョアの差異が隠蔽されたことがファシズムとしての消費社会の問題であるとする。そして、イタリアの都市中心部においては本来の意味での労働者は消滅し、労働者は第3世界に移行してしまった、と言う。
  先般から繰り返して指摘しているように、パゾリーニにおいてもファシズム概念を”永遠に分離している人々がその分離状態を固定したままにあるスローガン等の元にファスケスすること”と定義しており、本節においてもこの定義は極めて重要である。だが、中島はそれを明瞭に指摘していない。

○ 志賀直哉
  小説「児を盗む話」を解析し、そこに資本主義特有の自らにとってさえ異物である奇妙な欲望(子どもをさらって手元に置いておきたい)の出現と状態を認識している。
  これはもう少々分かりやすい文章になりそうなものだ。明らかに、買い物症候群なる人々が存在する。買い物をする、と言うこと、つまり商品に対する欲動を示す人々がいる。社会心理学の観点からすれば「子どもがいる人間はまっとうな人間である」と言う強烈な概念こそ、この小説において「私」に赤の他人の子どもをさらって手元においておく、と言うとんでもない犯罪を犯させた原因なのだ。一戸建てを持っている人間が…テレビがあるのが…ビトンの鞄がある女が…まともなのだ…そのような形で我々は商品を常に欲求するように構築されている。だが、筆者はかような心理学的アプローチをいっさい取らず、よってこの節ですら難解な文章となっている。

○ 柄谷行人とミシェル・フーコー
  本来柄谷程度は読んでおくべきなのだろうが、何しろ”文学”ではない方法によって人間存在にアプローチする心理学に専ら従事していることとて、柄谷でさえ全く未知である。

○ 〓秀実
  差別とは、区別すると言う構造そのものである。排斥したい人々を区別し、あたかも慈善であるかのようにもう一つの劣等な施設や組織を与えることにより差別は隠蔽される。この状態は、本来等価交換されるべくもない複数の商品が交換されるべくもなく対立している状態と等価である。等価交換が保障されないのは、それを媒介するメディアたる貨幣が円滑に機能しなくなっているからである。

○ 村上春樹
  現代において文学は消滅した。自己の内面が消滅し、内面と外面が一体化したからである。同時に、人々の言葉や概念は極めて私的なものとなった。村上春樹はかような状況を最も典型的に具現している。そして、村上は資本主義によって反復して登場する恐慌等の苦痛を癒す形態の文学を描き続けている。
  村上は中島や福田和也から極めて単純に資本主義を受け入れる作家だと見做されているようだ。先般紹介した石田衣良と同類だと思えば良いのかも知れない。先般紹介したように、石田は一見すると客観的に資本主義を把握しているようなタームを並べているが、実は全然客観的になっておらず、まさに内面も外面もない心理状態において事態を描写しているだけだと言える。

○ 阿部和重
  小説「シンセミア」を論じている。資本主義は必然的に余剰を生むのであり、この小説では産廃処理施設設置問題等の形で余剰が”ゴミ”として生み出される。そして、恣意的にあれはゴミこれはゴミではない、と言う線引きが行われる。この小説では、登場人物の誰もが何らかの意味でのゴミとして描かれる。
  本節は、比較的分かりやすい。廣島は本質的に徹底した唯物論者であり科学論者であり、人間主体論者であるから、どんな存在でも社会全体とか歴史とか言う物語全体の中に位置づけ直せると考える。よって、そこには必然的に排除される他はないゴミは存在しない。分子原子の水準に戻って循環する存在があえていえばゴミと言う事であるに過ぎない。つまり廣島は全然資本主義的ではない、と言う事になりそうだ。

  次に、「グランドフィナーレ」を論じる。こちらは、一般的にロリコン小説と理解されているらしいのだが、作品と言うよりもこの小説をロリコン小説だと切り捨て切らない日本の状況にこそ問題を見出そうとしている…らしい。
  この程度の背景描写でも、ロリコンと言う概念を巡る立派な人たちの概念にかなり問題がありそうな事が推論出来る。思うに、次のような事なのだろう。保護されるべき子供と性欲の対象たる女性は物理的に等しくないし、等しくあるべきではないと言う規範がロリコンは悪であると言う概念を生んでいる。だが、これは”性愛を感じさせるその少女がやがて成人するであろう”と言う当然の物質現象を否定しているばかりか、性愛を感じているのはまさにこの個性のある固有の存在たるこの少女である、と言う個人性を否定している。これでは、その少女の人格に対する侮蔑ですらある。雑駁に言えば、その子に性愛を感じると言うならば成人するまで待っても良いじゃないか、と言うことだ。つまり、誰でも良いから少女ならば性愛を感じるのがロリコンだと言うのが隠された定義なのかも知れない。そうであるならば、如何にもロリコンは単なる発達段階における性欲の固着であり、カウンセリングの対象であるに過ぎない。ところが、この「グランドフィナーレ」は特定の少女のイメージに固着している男を描いているそうだ。となると、廣島の定義からするとその男は半分だけロリコンであるに過ぎない。その程度で大家と見做される人々があれこれと言い立てたと言うのは随分詰まらないことだ。しかも、ロリコンの定義が先のとおりであるならば、性愛行動を様々に試みる思春期において特定の異性との安定した関係を次第に形成していく事に失敗した人々がロリコンなのであり、正に支援と援助の対象であると言える。そう認識しないのが大家と言うならば、その大家の思考が問題である。

○ 中村文則
  銃を何の気なしに拾った男が、どうしてもそれを発射せずにはいられなくなるまでを描いた小説を解説。
  この節は分かりやすい。現代社会は偽りの選択に溢れており、テレビのリモコンでチャンネルを選択するように、選択させられているに過ぎない状況を示そうとしているのである。

○ 星野智幸
  ハンストを選択する人々を描く。食べることとは労働力の再生産を意味するのであり、よって現代においてはハンストは人々にとって気障りな現象なのだ。
  これまた、廣島自身はハンストは強い抗議であると認識するので、気障りだとは思わない。となると、中島が描く現代人の範疇から外れているのだろう。
  次に小説集「無問道」において行為と知覚が接合しない存在として現代人を描き出してみせる。
  ここは、日本人特有の側面が強いように思われる。
  
○ 小林秀雄と宮本顕治
  この辺になると、いい加減疲れてきた。勿論、小林も読んだ事がない。う〜ん、小林秀雄すら読んだことのない人間が本書を読むと言う事自体が無謀の極みである。
  「我々の前にはファシズムかアナーキズムしか存在しない」「文学を娯楽と見なす大衆」「人それぞれに宿命を見出していく小林」「自分探しとは自分らしさの探求であり、自分らしさとは小林のいう宿命の通俗版に他ならない」「中村光夫:この科学性・思想性に阿智する”私の実感”の勝利が、動物と人間の最大の違いといってもいい抽象的理性の縮退へそのままつながっていってしまったことだと中村は言う」「(小林以降)現在のブログにおける私語りに至るまで、この小林の予言は完全に実現されてしまっていると言わざるを得ない。」…要するに、中島には小林秀雄も資本主義の中で大衆を慰撫するだけの文章を綴った人物と写っているようだ。

 以上のように、本書は議論もまた細部に亘っている。どうにか読み取れる筆者の意図及び及び書評や後書きに記されている筆者の意図を総括すれば、次のようになろうか。

「現代は徹底した資本主義社会である。そこにおいては、本来等価交換されるべくもない商品と商品が貨幣を媒介として交換される。そこには当然無理があるのであり、等価交換だと納得が得られる理由は労働力が商品化されているからである。」

そして、ここから現代の文学がどのような様相を呈しているかの解析が行われ、この前提の妥当性が繰り返し検証された、とされるのである。

 だが、心理学の観点からすれば話はもっと簡単に出来る。資本主義を担保する商品交換と言う飛躍は、強迫的なまでに人々の間に行動様式として装着されていると見るべきである。随分複雑な行動まで様々な経路を通して同一であるようにする強制力が、極めて一般的に働いている。その中の一つとして、商品を交換すると言う衝動がある。実際、身近な人々を見てもそのような衝動が存在しているとしか言いようのない人々を多く認める。

 かような欲動を科学ではない別の”文学”と言う表現方法によって”外化”した人々の言葉を統一的な文学理論の元に演繹できるとしたのが本書なのである。そして、筆者が文学を科学的でない概念によってでも自己の行動を対峙的に表現するものと定義しているらしい事は、村上論のあたりにおいて最も明瞭であろう。自己の内面が消滅したことと文学の消滅を等価であるとしているからである。

 ちなみに、筆者は未だに評論とは何なのか十分に把握出来ない、と記しているが、少なくとも筆者が行っている評論と言うのはかような”大統一理論”の形成であると言えるだろう。

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住むために戦う

仏暦2551年12月04日 木曜日

 アメリカカンザイシロアリの被害が徐々に拡大しつつある由。

 日本に従来から生息しているヤマトシロアリとイエシロアリは何れも大きな巣を作り、基本的に湿った材を食害するそうな。特に、イエシロアリは水を自分から運んで木材に水分を与え食らうと言う器用な事をするそうで、被害は甚大なものになるとの由。ところが、アメリカンザイシロアリは”アメリカ乾材白蟻”でして、材が特に湿っていなくても食害するとか。

 勿論、水分が不足しているような所とてさして大繁殖は出来ない。だが、その代わりあらゆる木材をぱくぱくしてしまう訳で、木造家具にも侵入し、引っ越しに伴って各地に点々と少しづつ生息範囲を広げているそうな。しかも、この白蟻は巣を作らず、一つの家族の大きさが小さいのも特徴とか。巣を作らないので発見も非常に困難。はっと気がついた時には、家の一番肝心な所がやられていると言う訳です。

 これらは、人間の移動に伴ってあちこち生息場所を広げるのに絶好の生態と言うべきです。白蟻は女王・王または副女王・副王のペアがないと繁殖しない。ある一つの家族が巨大である場合、女王等が人間の移動に伴って移動する可能性は極めて低くなってしまいます。家族が小さいと家族まるごとの移動が可能。成る程、白蟻は番いを形成する際に羽蟻になりますが、やはり昨今の人間の移動能力はこれを上回ると思われますので、アメリカカンザイシロアリの生態は思いがけない有利さを発揮します。

 それにしても、木材の家がエコロジカルだなんてかなりのウソとしか言いようがありません。白蟻の被害を防ぐために、大量の薬剤が使われるのが昨今普通なのでは? 特に、最初に木材をきちんと薬剤処理せず後から散布するとなると、薬剤の害が甚だしいようです。

 だから日本の風土では、家も使い捨てるものとするのは、それなりに合理的です。だが、それだと密閉性を確保しての良好な生活の形成に反します。寒く、暑く、火災と地震に弱い家になってしまう。

 以上の観点からも、日本の建設は知恵と知識と計画性を十分に練り込んだものになっていなければならないのですが、地主の取り分ばかりが多くて、建物は安物で風通しも日当たりも悪く変形した手狭な一戸建てを超大量に作ってしまいました。東京近辺の建て売り一戸建ては、どんなに狭い土地でも、建物の価格よりも土地の値段が高い状態で売られるのが普通です。建物をきちんとしたものにすると、余りにも高くなってマトモに働いている人は誰も買えなくなるからです。斯くして、暑く・寒く・火災と地震にも弱く、生活のための様々な施設からも遠い一戸建てが大量に作られてしまいました。今や手遅れと言わざるを得ません。

「日本人がマトモに住まおうとすると、暑さ・寒さ・天災に加えて白蟻よりも、まず地主と戦わなければならない」

ように見えます。

          †

 それにしても、今は木造住宅でもそれなりの密閉性が確保されているから住宅の食害害虫は白蟻だけで済んでいます。物理的に木材部分に侵入できるほど小さい虫が白蟻程度だからです。

 だが、昔のように密閉性がない住宅では大黒柱と言えどももっと多様な昆虫に食害されたのではないでしょうか? 白蟻に次いで木造住宅をぱくぱくしそうなのが、カミキリムシの類。勿論、湿れば木材はカビの攻撃を受けます。

 このような木材の劣化を防ぐため、かつての木造住宅はかなり長期間乾燥させた材でもって建てられたようです。一寸昔の”家を建てるためには”の類のハウツー本には何れも十分に乾燥させた材を使っているか、と言うようなチェック項目がありました。また、ヒノキ等が上等の建設材とされたのは、これら定評のある木材は昆虫やカビ等を寄せ付けない植物自身の防御物質がふんだんに含まれており、これが人間にとっても良い香りだったからです。今日の多くのいい加減な木造一戸建て住宅ではそうは行かないでしょう。

 日本は段々貧乏になりますから、本来であれば立て直すべき木造一戸建て住宅に我慢して住み続けるしかなくなります。密閉性を維持している壁等も少々破れても目を瞑ると言う事になる。やがて、

「ぎゃ〜、カミキリムシ! バシッ!」

と、ゴキブリのごとくカミキリムシが嫌われる時代が来るかも。

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