仏暦2551年12月07日 日曜日
中島一夫 2008年 「収容所文学論」 論創社
評論集。読んだこともない著者の名前ばかりが羅列されており、内容の概略紹介もないため、極めて読解が困難になっている。後書きで著者は「…過労死を余儀なくされた、またあるいは過労自殺寸前にまで追い込まれた近しい人々の姿を重ね合わせずにいられない。本書は無謀にも、そうした本を読む余力や余暇の時間など全く持ち合わせていない人々にこそ最も読まれたいと夢見ている。」と記しているが、まさに夢以外の何物でもない。
取り敢えず本書で紹介されている作家等を目次どおりに配列すれば以下のとおりである。それぞれを筆者は概略どのように評しているかのメモと、廣島のコメントを付記する。
○ 石原吉郎
本書の評論の根幹を成す。シベリア抑留体験を描いた作家であり、シベリア抑留生活においては最低の物資の交換すらあり、勿論労働の激しい搾取もあった。そこに、資本主義の根本たる商品性を見ようとする作家だ、と評される。この節では、本書全体の基調を成す、商品交換の飛躍性や、商品交換とある種のイメージ操作や行動の等価性の概念も合わせて提示される。
構成として、この部分は言わば公理系であるから、その当否を取り敢えず論じるべくもない。だが、公理系である故に、”最初に遡って”批判の対象となる。それは、この交換論においては以下に折々記したように
「商品交換、別けても労働力の商品化を暗黙に強制されると言う意味での収容所性は導出出来る」
のだが、
「搾取概念、特に日本において顕著である地主による直接間接の搾取及び公的資金による機会利益の損失の側面が全く描かれない」
と言うことである。収容所においては搾取は何よりも、ソ連により旧軍人から行われたのであり、旧軍人同士の関係にはなかったのである。
勿論、本書は行動が全て交換に基づくように強制されることとそれに付随する現象に焦点を当てているのであるからそれは別段不当ではないのだが、そのような大きな”穴”があることははっきり明示されて然るべきだろう。と言うのも先に記したように、筆者は後書きで「過労死等により苦しんでいる人々に読んでもらいたい」として本書を提示しているのであるが、かような悲惨は多分に搾取に伴うものであり、交換の暗黙の強制による疎外に必ずしも伴うものではないからだ。
本書の最大の問題は、かような現在の日本を描写するためには必ずしも適切ではない概念を適用している事にある。とは言え、この社会の”息苦しさ”とそれによる”この状況を拒否できないし、発言することすら出来ない心理”を描くためには極めて適切な観点を提示している。
○ ピエル・パオロ・パゾリーニ
イタリアのアーティスト。アノミー化した個人が消費熱に完全服従しているが故に、消費社会はファシズムだ、と主張。特にプロレタリアートとブルジョアの差異が隠蔽されたことがファシズムとしての消費社会の問題であるとする。そして、イタリアの都市中心部においては本来の意味での労働者は消滅し、労働者は第3世界に移行してしまった、と言う。
先般から繰り返して指摘しているように、パゾリーニにおいてもファシズム概念を”永遠に分離している人々がその分離状態を固定したままにあるスローガン等の元にファスケスすること”と定義しており、本節においてもこの定義は極めて重要である。だが、中島はそれを明瞭に指摘していない。
○ 志賀直哉
小説「児を盗む話」を解析し、そこに資本主義特有の自らにとってさえ異物である奇妙な欲望(子どもをさらって手元に置いておきたい)の出現と状態を認識している。
これはもう少々分かりやすい文章になりそうなものだ。明らかに、買い物症候群なる人々が存在する。買い物をする、と言うこと、つまり商品に対する欲動を示す人々がいる。社会心理学の観点からすれば「子どもがいる人間はまっとうな人間である」と言う強烈な概念こそ、この小説において「私」に赤の他人の子どもをさらって手元においておく、と言うとんでもない犯罪を犯させた原因なのだ。一戸建てを持っている人間が…テレビがあるのが…ビトンの鞄がある女が…まともなのだ…そのような形で我々は商品を常に欲求するように構築されている。だが、筆者はかような心理学的アプローチをいっさい取らず、よってこの節ですら難解な文章となっている。
○ 柄谷行人とミシェル・フーコー
本来柄谷程度は読んでおくべきなのだろうが、何しろ”文学”ではない方法によって人間存在にアプローチする心理学に専ら従事していることとて、柄谷でさえ全く未知である。
○ 〓秀実
差別とは、区別すると言う構造そのものである。排斥したい人々を区別し、あたかも慈善であるかのようにもう一つの劣等な施設や組織を与えることにより差別は隠蔽される。この状態は、本来等価交換されるべくもない複数の商品が交換されるべくもなく対立している状態と等価である。等価交換が保障されないのは、それを媒介するメディアたる貨幣が円滑に機能しなくなっているからである。
○ 村上春樹
現代において文学は消滅した。自己の内面が消滅し、内面と外面が一体化したからである。同時に、人々の言葉や概念は極めて私的なものとなった。村上春樹はかような状況を最も典型的に具現している。そして、村上は資本主義によって反復して登場する恐慌等の苦痛を癒す形態の文学を描き続けている。
村上は中島や福田和也から極めて単純に資本主義を受け入れる作家だと見做されているようだ。先般紹介した石田衣良と同類だと思えば良いのかも知れない。先般紹介したように、石田は一見すると客観的に資本主義を把握しているようなタームを並べているが、実は全然客観的になっておらず、まさに内面も外面もない心理状態において事態を描写しているだけだと言える。
○ 阿部和重
小説「シンセミア」を論じている。資本主義は必然的に余剰を生むのであり、この小説では産廃処理施設設置問題等の形で余剰が”ゴミ”として生み出される。そして、恣意的にあれはゴミこれはゴミではない、と言う線引きが行われる。この小説では、登場人物の誰もが何らかの意味でのゴミとして描かれる。
本節は、比較的分かりやすい。廣島は本質的に徹底した唯物論者であり科学論者であり、人間主体論者であるから、どんな存在でも社会全体とか歴史とか言う物語全体の中に位置づけ直せると考える。よって、そこには必然的に排除される他はないゴミは存在しない。分子原子の水準に戻って循環する存在があえていえばゴミと言う事であるに過ぎない。つまり廣島は全然資本主義的ではない、と言う事になりそうだ。
次に、「グランドフィナーレ」を論じる。こちらは、一般的にロリコン小説と理解されているらしいのだが、作品と言うよりもこの小説をロリコン小説だと切り捨て切らない日本の状況にこそ問題を見出そうとしている…らしい。
この程度の背景描写でも、ロリコンと言う概念を巡る立派な人たちの概念にかなり問題がありそうな事が推論出来る。思うに、次のような事なのだろう。保護されるべき子供と性欲の対象たる女性は物理的に等しくないし、等しくあるべきではないと言う規範がロリコンは悪であると言う概念を生んでいる。だが、これは”性愛を感じさせるその少女がやがて成人するであろう”と言う当然の物質現象を否定しているばかりか、性愛を感じているのはまさにこの個性のある固有の存在たるこの少女である、と言う個人性を否定している。これでは、その少女の人格に対する侮蔑ですらある。雑駁に言えば、その子に性愛を感じると言うならば成人するまで待っても良いじゃないか、と言うことだ。つまり、誰でも良いから少女ならば性愛を感じるのがロリコンだと言うのが隠された定義なのかも知れない。そうであるならば、如何にもロリコンは単なる発達段階における性欲の固着であり、カウンセリングの対象であるに過ぎない。ところが、この「グランドフィナーレ」は特定の少女のイメージに固着している男を描いているそうだ。となると、廣島の定義からするとその男は半分だけロリコンであるに過ぎない。その程度で大家と見做される人々があれこれと言い立てたと言うのは随分詰まらないことだ。しかも、ロリコンの定義が先のとおりであるならば、性愛行動を様々に試みる思春期において特定の異性との安定した関係を次第に形成していく事に失敗した人々がロリコンなのであり、正に支援と援助の対象であると言える。そう認識しないのが大家と言うならば、その大家の思考が問題である。
○ 中村文則
銃を何の気なしに拾った男が、どうしてもそれを発射せずにはいられなくなるまでを描いた小説を解説。
この節は分かりやすい。現代社会は偽りの選択に溢れており、テレビのリモコンでチャンネルを選択するように、選択させられているに過ぎない状況を示そうとしているのである。
○ 星野智幸
ハンストを選択する人々を描く。食べることとは労働力の再生産を意味するのであり、よって現代においてはハンストは人々にとって気障りな現象なのだ。
これまた、廣島自身はハンストは強い抗議であると認識するので、気障りだとは思わない。となると、中島が描く現代人の範疇から外れているのだろう。
次に小説集「無問道」において行為と知覚が接合しない存在として現代人を描き出してみせる。
ここは、日本人特有の側面が強いように思われる。
○ 小林秀雄と宮本顕治
この辺になると、いい加減疲れてきた。勿論、小林も読んだ事がない。う〜ん、小林秀雄すら読んだことのない人間が本書を読むと言う事自体が無謀の極みである。
「我々の前にはファシズムかアナーキズムしか存在しない」「文学を娯楽と見なす大衆」「人それぞれに宿命を見出していく小林」「自分探しとは自分らしさの探求であり、自分らしさとは小林のいう宿命の通俗版に他ならない」「中村光夫:この科学性・思想性に阿智する”私の実感”の勝利が、動物と人間の最大の違いといってもいい抽象的理性の縮退へそのままつながっていってしまったことだと中村は言う」「(小林以降)現在のブログにおける私語りに至るまで、この小林の予言は完全に実現されてしまっていると言わざるを得ない。」…要するに、中島には小林秀雄も資本主義の中で大衆を慰撫するだけの文章を綴った人物と写っているようだ。
以上のように、本書は議論もまた細部に亘っている。どうにか読み取れる筆者の意図及び及び書評や後書きに記されている筆者の意図を総括すれば、次のようになろうか。
「現代は徹底した資本主義社会である。そこにおいては、本来等価交換されるべくもない商品と商品が貨幣を媒介として交換される。そこには当然無理があるのであり、等価交換だと納得が得られる理由は労働力が商品化されているからである。」
そして、ここから現代の文学がどのような様相を呈しているかの解析が行われ、この前提の妥当性が繰り返し検証された、とされるのである。
だが、心理学の観点からすれば話はもっと簡単に出来る。資本主義を担保する商品交換と言う飛躍は、強迫的なまでに人々の間に行動様式として装着されていると見るべきである。随分複雑な行動まで様々な経路を通して同一であるようにする強制力が、極めて一般的に働いている。その中の一つとして、商品を交換すると言う衝動がある。実際、身近な人々を見てもそのような衝動が存在しているとしか言いようのない人々を多く認める。
かような欲動を科学ではない別の”文学”と言う表現方法によって”外化”した人々の言葉を統一的な文学理論の元に演繹できるとしたのが本書なのである。そして、筆者が文学を科学的でない概念によってでも自己の行動を対峙的に表現するものと定義しているらしい事は、村上論のあたりにおいて最も明瞭であろう。自己の内面が消滅したことと文学の消滅を等価であるとしているからである。
ちなみに、筆者は未だに評論とは何なのか十分に把握出来ない、と記しているが、少なくとも筆者が行っている評論と言うのはかような”大統一理論”の形成であると言えるだろう。
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