コトバではなく言葉の更に奥の概念においてこそ
仏暦2551年01月07日 月曜日
さても、単なる月日の流れの一つとは言え、また年が明けました。黙っていると生き物は死んでしまうものであり、とにもかくにも生き長らえている事は実に目出度い事と申せましょう。そのような意味において本貧弱なるブログをわざわざご高覧頂いている読者諸賢に対し、新年のご挨拶を申し上げる次第です。
「また1年を過ごすことができ、おめでとうございました。」
そう言えば、「吾妻ひでお、2005年、失踪日記、イーストプレス(東京)」には、失踪して自由人生活に入った吾妻氏が寒雨に曝されながらつぶやくこんなシーンがあります。
「家って、屋根があるだけですばらしいものだったんだなァ」
そんな事も実際に経験してみないと分からないのが人間かも知れませんが、それを待っていたらば世の中の災難全てに遭遇しなければ人生における英知に到達しないと言う訳でありまして、これは幾らなんでもあんまりであります。(^_^;)
と言う訳で、
「賢者は歴史に学ぶ 愚者は自らの経験に学ぶ」
のでありまして、多く積み重ねられた知恵知識を熟考して我が物とするのが人間の人間たるものであります。が、それを日本人がきちんと出来ているのだろうか?と大いに疑義を呈しているのが今回ご紹介する
「高村薫、坂的時評集2000−2007、朝日新聞社」
です。この文庫本は、「今の人々は言葉によりきちんと世界を認識していないし、他者に対してきちんと言葉を発していないではないか」と言う事を指摘し続けているコラム集です。廣島にとっては退屈な本でした。一応は色々と考えている人間にとっては、その主張や論旨は既に通った事のあるものが多かったからです。
だが、そもそもこのような本を手に取ろうとすらしない人々が圧倒的多数(筆者も本書の中で、自分が一気に少数派に転落した事を知ったと述べています。)らしいことを認めざるを得ません。まだ多くの書店が日本には存在していますが、その大方は何らかのハウツー的な道具を提供するか、暇潰しを提供する機能しか果たしていないようです。この落差を少々埋める努力をしてみるとなると、廣島が本書で多少は感嘆した点を書き連ねるのが良いのかも知れません。以下、その部分が記載されたコラムのタイトル・抜き書き・感想の順でいくつか記してみます。
○ ほんとうに「新しい」時代
…ひょっとしたら日本人の多くは、新年が明けたと同時に旧年は見ずに流れる物と、ほんとうに思い込んでいるのかもしれない、と。…
日本人の歴史観のなさと、そのコインの裏表と言うべき未来への見通し(他の所で”あとさき”と記していることと同じでしょう)が欠けている理由だと言いたいようです。全く同感。多少とも考える人にとってはそんな馬鹿なと思うような情報処理様式(決して思考様式では、ない)を圧倒的多数の日本人はやっているのだ、と仮定しないと説明できない事がこの国には多すぎます。
○ 慣れすぎてしまった「嘘」
…
タイトルどおり。と言うよりも、ここ何回か本ブログに記したように、そもそも日本人の概念に「嘘」と言うものが存在しているのかどうかさえも疑ってかかるべきかと思われます。日本人においてはフッサールの言う所のパロールだけが専ら存在し、そのパロールは要するに他者を操作するオペラント行動として表出されるのが専らである、と仮定しないと、どうも様々な説明が一貫しない。となると、そこには嘘なんてものは”元来存在しない”のであります。ラングが殆どないんですから。
○ 公僕の誇りを問う
…強大な職権を持つ組織の長が温泉旅館でマージャンをしていたと言う卑小な事実…かりにも警察本部長と言う公の地位と名誉のある人なら、せめて読書や勉強をするふりでも出来なかったのか。
お答えします。(^_^;) するような気分には最早ならないと思います。筆者も他の所で述べているように、人間の価値が所得や財産だけで計られる国を日本人は作ってしまいました。警察本部長と言えども、その俸給は明治時代等のような絶大なものではまるでないどころか、ちょっと気の利いた会社員と同じようなもんなのであります。
そう言えば、廣島も職業的な地位では人様に馬鹿にされるようなモノでは決してないと思うんですが、バブルの華やかさを経験した我がかみさんに大したことが出来ないのなんのと馬鹿にされとります。大体、筆者が”公の地位”と言うこと自体が既に銭金と欲望の奴隷となった現代日本人の心理的枠組みと、残念なことに、決定的にズレていると思えます。ので、殊更に”職業的地位”と記しました。そして、日本人においてはその職業とは要するに銭金と利権をどれだけ多く獲得出来るのか≡他者をどれだけ強力に支配出来るのか、と言う観点からだけ評価されます。
この決定的なズレを抱えたまま、そしてそのズレを暴くために、本書は続きます。
○ 「進歩のために」
…しかし、そもそも地球温暖化が避けられないご時世に、わたくしたち先進国の暮らしをもっとゆたかにするためのデジタル放送を開始するに当たって、誰にどんな見通しがあったのかが定かでない。…
後に出てくる、”あとさき”論と同じことを述べていると言えます。何が駄目で、何をする積もりで、その副作用はどの程度になりそうなのか?をひととおり考える事。まぁ、科学的マネジメントと言っても同じようなもんでしょう。日本人がQCを忘れ、QCがそもそもTQCにならずに単にQCサークルによる無賃労働の拡大だけに終わったのは残念だった、と言っておきましょうか。
○ 人災の危険に満ちる街
…都市で起こる大地震がどうしても人災の様相を含んでくる…大都市には未必の故意が満ちています。
殆ど全てのハザードが人間活動そのものから由来する、と言うのは、ベックの「危険社会」論の前提の一つでもあります。
○ 感情をなくした日本人
アメリカの原子力潜水艦が、愛媛県の宇和島水産高校実習船えひめ丸に衝突した事故…
(この後、筆者はこの事件にあたり日本人が悲憤の感情をまるで欠いたような有り様だった事を抗議を込めて記す。その理由として…)…わたくしはまず、一つには単純な想像力の欠如があるだろうと思っています。…なぜ、いつから、それほどに物事に無関心になったのか。…六十年代の始めごろまでは、是非は別にして、日本人の感情はおおむね今よりもっとはっきりしていたように思います。…わたしは近年、全共闘世代の沈黙と言うことを考えるようになりました。…ものを言わないことは、たんなる放任に留まらず、物事について考えたり判断したりすることを教えなかったと言うことだと思います。…
これまでWeb本体でも展開して来た、全共闘世代つまりは団塊の世代に対する非常に根本的な疑念を、団塊の世代ちょいあとの高村氏は多少は抱いているようです。三森氏の言うプログラム駆動症候群においても、これまで述べてきたように、他者への共感なり自分の感情にきちんと向かい合う等の事が起きなくなります。筆者は感情は言葉によって形成されるものだと述べています。感情行動そのものは生得的な面が多分に強いものであるのは間違いないのだが、それがいつどのような帰結で発動されるかは行動として形成される知的なものであるのは間違いない。どこで怒るべきか、はコトバではなく、言葉、つまりはラングが決めるものでありましょう。
○ 「ひどい」の次の一言がない私たち
感情が知的なものによって制御されるまとまった行動である、とする前項の記載からすれば、本項目の趣旨は明らかでしょう。そのとおり、思考停止の傾向を論難している節です。
と言う具合に、本書は本気で読み始めたらば整理し切れない程様々な事を考えさせられるものです。実は廣島はこの本をまずは図書館で借りました。やっぱり買っておくことにします。とは言え最後に一言。
…日本はこれから確実に人口が減少し、国民総生産も小さくなっていく。先進国ではあっても中規模な国になるだろう。…
→う〜ん、考えると言う事を無くした国民が先進国であり続けられるとはとても思えないんですが…。
(^_^;)


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